新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

吉本隆明の思い出ー「共同幻想論」を中心に

 今日は曇り空でしたが、結構暖かかったです。近くの桜の木も芽吹き始めています。春がもうすぐそこにまで来ているようです。4年ぶりに日本で春を迎えます。中国の大学にも桜の木がありました。また西南部(日本の鹿児島県の緯度)だったので、春になると沢山の花が大学構内で咲いていました。

 今日は4月から働く特殊法人から1年間の計画が送られてきました。県立高校ですと、次年度の計画ができるのは4月に入ってですが、こちらは規模が小さいので早めにできあがるようです。4月は2日間しか仕事がありません。その代り5月は5日間仕事があります。

 県立高校の場合月給制で、行事で授業がなくても給与は支給されるのですが、こちらの法人は1回いくらなので、行事で仕事がないと収入はゼロです。といっても、半年に15回の仕事が約束されているので、別にかまわないのですが。半年の無職生活にも飽きたので、早く仕事がしたいです。

 さて、先日吉本隆明が亡くなったと報道されていました。彼の本は大学の時に読みました。当時の大学生(昭和40年代後半)には大人気でした。今の大学生と違って、そもそも大学進学率が20%くらいでしたから、皆議論したり、読書に励んだりしていました。(もちろん当時からアルバイトやサークル活動も盛んでした。)

 大学に入った時、先輩から「岩波新書を1年に100冊読め。」と言われたものです。当時は羽仁五郎の「都市の論理」も大流行でした。革新自治体が自民党政府を包囲するのだと主張していました。その後革新自治体は総崩れになりましたが、再び民主党政権としてよみがえったのは隔世の感があります。

 残念ながら革新自治体も民主党政権もどちらも行政の運営に不慣れな上に、理想ばかり高かったせいで失敗しました。しかし、大阪や愛知のような地方連合が国政をおびやかすあたりは、昭和40年代後半の構図と似ています。どちらも、中央政府の不手際が原因です。

 ところで吉本隆明ですが、おじさんたちは「よしもとたかあき」ではなく「よしもとりゅうめい」と読んでいました。「言語にとって美とはなにか」とか「共同幻想論」を読んでいないと、文学部の学生たちの議論に加われないので、「共同幻想論」だけを読みました。

 卒業後もその本はずいぶん長い間書架においていました。家をやり直す時、蔵書はほとんど古本屋に売りました。その時は古本屋さんに自宅まで小型トラックで来てもらって蔵書を処分しました。わずかに残った本も中国の大学で教えるようになって、そちらの外国語学院資料室に寄贈しました。

 ところで、「共同幻想論」で覚えていることは、今日の朝日新聞にあった有名なセリフです。「国家とは共同幻想」であるという言葉です。国家というのは、おじさんが生まれた時からあるし、それ以前2000年近く前から存在していたので、「幻想」という言葉には抵抗がありました。

 しかし、ソ連の崩壊を見て、やはり「国家とは共同幻想」なのだということを悟りました。日本は世界でも特殊な国家だと言えるでしょう。国家として成立する要件は「領域・人民・権力」の三つです。日本の場合、戦前のある時代を除くと現在の領域(国土)と古代の領域はほぼ同じです。(任那日本府などは例外です。)

 住んでいる人民も同じ日本民族(日本人)です。もちろん、アイヌ民族なども住んでいますが、それは取りあえず除外しておきます。少なくとも他の国のように民族問題が起こるほどの数ではありません。権力についても、天皇制が、古代から続いています。武家政権天皇からその権限を委託されたものです。

 つまり、日本人にとって国家とは幻想でなく、実体として、2000年近く継続していたのです。しかし、考えてみると、アメリカ合衆国も何もないところから、国民が国家を作ったのです。話は変わりますが、中国にいた時にも感じたのですが、なぜ他国で国旗や国歌が問題にならないかについてです。

 それは共同幻想と関係があります。つまり、国民と言われる人たちが、国旗や国歌を尊重しなければ国家が成立しないからです。他国では常に領域(領土)も変わり、沢山の民族が混住し、権力も変わりました。(特に異民族支配)

 国家と国民とを結ぶきずなこそが、国旗国歌なのです。中国はもちろん共産党支配の国なので、共産党の目を恐れて皆国歌や国旗を尊敬すると思われがちですが、おじさんが観察する限りでは、共産党に批判的な学生さんでも、国旗や国歌については、尊敬の態度を示します。(どこかの地方自治体のように管理職が国歌を歌っているかどうかチェックしたりなどはしません。もちろん歌わないからと言って処罰もされません。)

 それは命令されてやっているとは思えないのです。中国のような広大な国土と多数の民族(50以上の他民族国家)を結びつけているのは、たとえ共産党が決定したとはいえ、国旗であり国歌であるのです。日本でなぜ他国では国旗国歌を尊重するのに、きちんやらないのかという議論があります。

 これは、そもそも何の努力もせず、そこに生まれただけで国民となりいつから国家ができたのか分からなくても生活できる、日本だからこそ、起こる議論なのです。中国で言えば、満州族の中国国民はかって清朝の時代は自分たちの国家だったのにと考え、蒙古族の中国国民はかって元朝の時代は自分たちの国家だったのにと考えるのです。

 中国政府も中国国民も国家が共同幻想だと知っているのです。あの有名な裸の王様と同じです。誰かが、王様は裸だと言ったら全ては消えてしまいます。日本人に関係するもので言えば満州国のようなものです。ところで中国国民はたとえ共産党が嫌いであっても、今の広大な国土を失う気はありません。

 一端独立をある地域で認めたら中国はまたたくまに小国になってしまいます。特に中国のかなりの部分を占める新疆やチベットがそうです。小さな島一つでも戦争になります。(フォークランド紛争)ですからどんなことがあっても中国政府は新疆やチベットの独立を認めないと思います。(一度中国の地図を見ていただければ分かります。)

 それは中国政府だけでなく、国民全体(チベットや新疆に住む人は別だと思いますが)の総意だと思います。日本で北海道のアイヌ民族が北海道独立を目指したり、沖縄がかって琉球王国だったことを根拠に独立を目指しても、国民はそれを認めないのと同様です。

 別に中国政府の味方をしているのではありません。大学の政治学の時間の一番最初に「政治とは悪魔的なものである。」と教えられました。政治とはやはり力関係だと思います。まさにバランスオブパワーです。アメリカ政府も同じ考えだと思います。もし、チベット独立を引き金に中国全土に渡って民族自決運動が起こったとしたらどうするでしょう。

 混乱を恐れて、独立運動を抑えるのに協力するか、中国が大混乱に陥って中国政府の力が削がれるのに期待して、独立を支援するか、それはアメリカの国益から判断するはずです。少なくとも今は重要な貿易相手国である中国が大混乱するような自体は避けたいとアメリカは考えているでしょう。(重慶市の副市長の亡命騒ぎでも、アメリカの国益になると思ったら亡命を認めたはずです。)

 アメリカのチベット独立運動に対する姿勢も全てそこから来ているはずです。理想だけでは政治や外交はできないからです。以前書いた北朝鮮アメリカの支援合意などがその典型です。

 明日は日曜日なので教会です。