新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

卒業生が来ました。-高校教師時代の思い出

 今日の株式相場はちょい安で引けました。以前から書いていたので、今日は別のテーマで書きます。今日卒業生の人が来てくれました。

 実はツマクマの体調が不良で偶然訪問看護で卒業生の人が担当になったのです。卒業生と言ってもすでに50歳を越えています。

 おじさんは現役高校教師の時近畿地方の県立高校2校おじさんの地元に帰ってから県庁所在地の高校1校と地元の高校3校に勤務しました。

 今日来てくれた卒業生は地元の最初の高校の卒業生です。近畿地方の2番目の高校が新設3年目の高校でした。初任校が田舎の工業高校でしたが、この新設3年目の高校は都市部の普通高校でした。

 当時はまだ公立高校に行くのが普通でしたから、優秀な生徒が大勢来ました。県立高校は学区があるので、その学区の生活レベルで高校のレベルが決まります。その高校のある地域は超高級住宅街でした。

 近畿地方の方ならその地区の名前を聞いただけでああと納得してもらえます。おじさんは別の地域の出身だったので知りませんでした。近畿地方では近くを通る私鉄の名前で地域のレベルが決まるとも言います。

 おじさんのいた高校は阪急沿線だったとだけ書いておきます。その後出身の県の県庁所在地の高校に転勤しました。そこも新設10年目の高校でした。今でも一番仲が良いのがこの高校の卒業生です。

 そこに4年勤務してとうとう自宅のある地区の高校に転勤しました。転勤先は新設2年目の高校です。教員の世界では新設要員という言葉があります。

 0から高校を作るのですから、新設校勤務は大変です。それで、うわさによると新設校の校長は人事で優先されると聞きました。つまり押し付けられた人事でなく、個別にあの教師がほしいと教育委員会の希望できるというのです。

 この高校に来た時すでに予定済みと言われました。行った時はまだ校舎が建設中でした。希望に燃えて赴任したのですが、すぐがっかりしました。その高校の基幹をなすメンバーが体育会系だったのです。

 後のその高校は少年院とか軍隊とかあだ名されるようになりました。おじさんのような文人派はとても肌に合わなかったのです。その最初の卒業生が今日来たメンバなのです。

 おじさんは何の因果か看護医療系のクラスを担任させられました。看護医療系は半文半理のコースです。看護医療系と言っても医学部入学するほどのレベルではありません。看護師とか衛生検査技師を目指すコースです。

 おじさんのクラスからは10人以上の生徒さんが看護学校に行きました。今日来た卒業生3人のうち2人が看護師です。すでに婦長(看護師長)クラスになっています。

 卒業式の後おじさんの家に20人以上の生徒さんが遊びに来ました。その次の学年くらいまで、おじさんの家に遊びに来ました。リビングの物を全てだし、階段にまで座ってもらいました。

 今日来た卒業生はあんなに楽しかった思い出はないと言います。その後その学校に9年勤務しました。そこで教師生活最大の困難も乗り越えました。その困難な問題は学校を二分するほど激しい論争になったのです。

 公立学校では宗教的中立が求められますが、その時だけ困難な問題を起こした生徒と聖書を読んで神様に祈りました。この時ほど信仰を持っていて良かったと思ったことはありません。

 神様のみちびきで、この困難な問題をベストな形で解決することができました。9年勤務して、転勤希望を出しました。校長から、転勤希望の理由は何ですかと言われたので、新設校以外の学校に勤務したいと言いました。

 すると校長はそれは転勤希望の理由にはなりませんと言いました。多分意地悪されて教育困難校に回されると思いました。ところが、県下で5本の指に入る名門校に転勤になりました。

 そこの校長は新設校時代一緒に働いた教頭でした。当時は教頭でしたが、その後校長になったのです。その教頭には可愛がられてある大きな仕事のできるポストをもらったのです。それはきちんとこなしていました。

 それで、おじさんが転勤希望を出したのを見て取ってくれたのです。普通の校長ならそんなことはできないのですが、有力校長だったのでできたのでしょう。

 結局12年そこにいました。その高校での誇りは現役でおじさんのクラスから東大合格者を2名だしたことです。おまけに一橋大学にも一人入れました。

 あとにも先にも東大入学生を出したのはその時だけです。おまけに甲子園と花園にも行けました。公立高校でここまでできる高校は少ないです。

 教師冥利につきる一日でした。