新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

昔とはいつのことー日本人の歴史観試論

 今日まで晴天のようです。今日は先日やり残した「ぎんなん」の皮剥きの残りをやりました。ツマクマは友人の所へ行って不在なので、こんなことをして過ごしています。
 
 株価の方は薄商いの中少し上昇しています。(14時現在)昨日の夜の報道でアメリカの市場が大幅に値上がりしたので、期待したのですが、思ったほどは値上がりしませんでした。おじさんの持ち株も少し値上がりしました。しかし、買い値に比べると問題になりません。
 
 第三次補正予算については、増税ということで政府原案はできそうです。復興国債の日銀引き受けとか、埋蔵金で全て賄えなどという意見もありましたが、常識的な線でいきそうです。おじさんは煙草を吸わないので、たばこ税がいくらになっても関係ありません。相続税の引き上げも良いと思ったのですが、これは社会保障関係の費用に充てるようです。
 
 さて今日は閑にまかせてブログを読んでいると過激な意見を見ました。経済でも政治でもアジア情勢のカテゴリでも見ました。どんな意見かは、このブログを読んでいるうちに分かっていただけると思います。先日ノルウェイで移民反対の過激派の人物が大勢の人を殺しましたが、日本でもこのような考えの人がいるようです。
 
 特に東アジアの国については、ひどいです。嫌いなのは個人の自由なのですが、その国の人に対して蔑視的な用語で非難するのはちょっと耐えがたいところです。書いた人は自分は伝統保守主義者だと思っているのでしょう。もしかしたら愛国者だと自負しているのかもしれません。
 
 そこで、伝統つまりこれまでの歴史についてちょっと考えてみました。よく昔は良かった。現代は駄目だ、昔に戻そうという人がいます。伝統を守ろうというのです。ところで、伝統の基になる昔とはいつのことでしょう。若い方は昭和時代、あるいは戦前、さらには明治、江戸時代というところでしょう。
 
 江戸時代をさかのぼることはなさそうです。昨日書いた武士のイメージも江戸時代の武士です。人間のイメージは結構短いスパン(間隔)でしか思いつかないようです。随分昔からだと思うようなことであっても、実はつい最近の場合が多いのです。
 
 例えば、夫婦別姓について猛烈に反対する人がいます。家族が別々の名前を持つことで家族の一体感がなくなり、家族の崩壊につながるとというのが根拠のようです。しかし、ちょっと考えれば分かるように、全ての日本人が名字を持つようになったのは、わずか120年くらい前です。(明治維新以後)
 
 それ以前にはそもそも家族に名字などなかったのですから、伝統というには余りに短いものです。しかし、名字のなかった明治以前の日本人の家族も今と同じように仲良く暮らしたはずです。おまけに名字自身明治になってあわてて庄屋さんに付けてもらったり、田の中に家があるので田中のように付けたと聞きます。
 
 中国や韓国では本当に昔から名字があります。ですから逆に結婚して自分の名字を捨てるなど考えられないことです。名字は自分自身のアイデンテテイそのものだからです。だからと言って中国や韓国の家族に一体感がないなどありえないことです。(もし中国や韓国で日本と同じように夫婦同姓しか認めないと言ったら、たとえ中国政府であっても反対運動によって崩壊するでしょう。もちろんそんなことを考える政治家はいませんが。)
 
 男女性別役割分担でも。専業主婦の登場は大正時代の一部の上流階級の間に起こったことです。今主婦の年金の問題がでていますが、男性が外で働いて女性が家事をするのは、明治までの人口の大半を占めた農民においてはあり得なかったことです。小規模商店でも同様です。
 
 日本が単一民族国家だったのは事実です。しかし、それは江戸時代までです。江戸時代は鎖国で外国に行くことも外国人が例外を除いてくることもなかったので、当然のことです。他民族国家に日本がなったのは、明治以降のことです。
 
 まず明治になって、北海道が全て日本の領土になったのですから、アイヌ民族が加わりました。アイヌは独自の言語と文化を持つのですから、大和民族(日本人)の他にアイヌ民族の二つの民族国家になります。その後朝鮮併合で朝鮮も日本の領土になったのですから、当然朝鮮民族も加わります。さらに、台湾も日本の領土になったのですから、漢民族ないし、台湾の諸民族(例えば高砂族)加わります。
 
 それに南洋諸島も日本の委任統治領になりましたから、その人達も日本人ということになるでしょう。ところが、戦前のことを称賛する人達も余りこのことは触れません。中国大陸でも関東州と呼んで日本の領土として扱つかったのですから、大勢の漢民族もいたでしょう。
 
 時々日本に帰化する外国人に対する偏見に満ちたブログを見ます。その人達の意見はどうも日本は日本人だけのものだというのです。そして、そのような人は過去特に戦前の日本に共感を持っている人が多いです。しかし、逆説的ですが、共感を持っている戦前の日本こそが多民族国家だったのです。
 
 ちょっと歴史に関心のある人なら皆知っていることですが、そんなことを言ったり書いたりしたら面倒なことになるので黙っているだけだと思います。おじさんも余り人が見ないカテゴリに目立たないタイトルで書いています。ただ、東アジアの近隣諸国の人々に対して軽蔑的な呼称を用い、排除を叫んでいる人達が、政権を握ったら、本当に今より悲惨な状況になると思います。
 
 北風と太陽の寓話ではありませんが、人間は自分を軽蔑し見下す人に好意を持つはずはありません、付き合いにくい人と付き合うには、その人のために本当に誠心誠意を見せることだけです。おじさんは今中国で教えていた学生さんから、色々日本文(自己紹介文や研究計画など)の訂正や添削を依頼されます。これを誠心誠意実行することが日中の友好と和解に繋がると考えています。
 
 自分の子供のお世話になった先生を悪くいう親はいません。親がその先生の話を他人にすれば、さらにその先生の行いに感心するでしょう。そう思って今も学生さんたちのためにがんばっています。明日からまた日曜日まで別荘です。しばらくブログはお休みです。