新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

教育における能力主義について

 今日は一日晴天でした。今日は以前書いた学校の面接でした。といってもほぼ内定状態だったので、面接内容はこれからの授業や校内見学などでした。正式採用になれば来年4月から授業をします。クラスは1クラスでどのようなクラスからはまだ未定です。とりあえず高校2年生を教えます。
 
 内容は総合国語(国語Ⅱとも言います。)です。つまり現代文も古文も漢文も全て少しづつだけどやることになります。2コマ50分×4時間です。講師料は結構よくて大学の講師なみです。交通費もでるのでとてもハッピーです。現在無職の身としては、とりあえず何とかなりそうなのでうれしいです。
 
 今日は正式な資料となる履歴書をもらって、それに書き込んで送らなければなりません。それが、人事委員会で承認されて初めて正式採用ということになります。これがでるのは来年の1月くらいです。ですから、前回は内内定、今回は内定、正式採用通知は来年1月ということになります。
 
 さて、今日は就職活動の話ばかり書くわけにはいかないので、久しぶりに教育問題について書きます。教育問題はだれでも参加できるので、十人十色の意見があります。その中で能力主義について今回取り上げます。最近は少し下火ですが、「飛び級」の問題があります。
 
 以前は能力別編成が問題になったものです。つまり、能力の高い者(大体は成績上位者)だけを集めて英才教育をやるものです。実はおじさんが高校時代から能力別編成がありました。昭和で言えば30年代後半です。1年までは芸術選択を中心とするクラス編成で2年から進学クラスと就職クラスを分け、さらに進学クラスを能力別編成にしたのです。3年でさらに入れ替えをしました。
 
 おじさんは上位クラスでしたが、そうでないクラスとの間に微妙な雰囲気がでました。クラスマッチや体育大会などのクラス対抗の時には相当燃えました。結果は確かに出ましたが、たとえ能力別編成をしなくても結果が変わったか疑問に思っていました。
 
 これがトラウマになって、教師になっても能力別編成には反対の立場にたちました。トップ進学校で教えた時には、科目選択で自然に能力別編成ができました。理系の場合は数Ⅲ・物理選択のクラスが良く、文系の場合は化学世界史が良かったです。逆に理系だと数ⅡB・化学選択は理系だと物理に自信がない生徒が選択していたようです。(もちろん農学部などはこれで良かったのですが)文系では生物・日本史がこれに該当します。
 
 トップ以外の学校でも時々能力別編成を主張する先生がいましたが、実際やってみてもそれほど効果はなかったようです。というのは、能力が高い(この場合成績が良い)と言っても、トップ校ほど優れていないので、結局どんぐりの背比べ状態になるのです。
 
 逆に選別からもれた生徒は何か割り切れないものを感じるようです。それに数少ないリーダーになれる生徒を特定のクラスに集めるので、それ以外のクラスはリーダー不在でクラス経営が難しかったようです。なぜかおじさんが現役だった時代、成績優秀な高校の生徒さんは、スポーツも優秀、指導力もある学生さんが多かったようです。世の中の人が良くいうがり勉のような生徒は進学校では少ないです。
 
 自宅では必死で勉強しても、学校では全然勉強していないよと言った雰囲気でした。さて最後に「飛び級」について書きます。結論から言えば日本ではちょっと無理だと思います。理由はとても簡単です。日本の社会は横並びなので、単に学習能力が高いだけでは評価されないのです。
 
 極端な場合、18歳で大学を卒業したとしましょう。それで企業が採用してくれるでしょうか。22歳ばかりの社員中で一人浮くのは見えています。理系で研究職であっても、今はチームプレイが普通なので、一人だけ年齢が4歳も若いのは難しいでしょう。
 
 大学では飲事が当たり前です。16歳の飛び級の学生さんはここでも浮いてしまいます。1浪2浪は当たり前ですから、18歳以下での大学生とは大きな年齢差がつきます。横並び社会の日本で一人だけ共通体験なしに生活をともにするのは、本人にとって苦痛なだけだと思います。
 
 多様な民族で個人主義を中心とする大陸の諸国の場合、そもそも横並びなど不可能なので、飛び級も可能だと思います。日本の教育の場合極端な平等主義も問題ですが、能力主義教育は現実には困難ではないでしょうか。エリート教育も同様です。
 
 戦前の旧制高校生がエリートだったのは、彼らにエリート教育を施したからだけでなく、社会の進学率が低かったので、自然にそこまで行けるのが社会全体でエリートとみなされたのです。エリートとみなされるには社会の承認と自覚の両方が必要です。
 
 死語となった「学士様なら嫁にやろか」とか「末は博士か大臣か」などと言われた時代背景があったからこそ、エリートが存在したのです。もしエリート教育を実施するとしたら、大学の大幅な選別が必要になります。大学進学率10%となったら大学はエリートの集まりになるでしょう。
 
 明日はのんびり過ごします。