新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

忘れられ行く聖なるもの

 今日は朝から晴天が続いています。中国で指導して、現在日本の大学院に留学している学生さんからメールがありました。この学生さんは、日本思想史の研究をしています。中心は武士(武士道)の研究です。先日東京であった学会にに出席したようです。
 
 おじさんも学生の時初めて国語学会に先生のお伴で行きました。確か金沢であったと思います。論文でしか知らない偉い先生がたくさんいました。先生があれが○○だよと教えてくれました。先年なくなった大野晋氏を見たのもこの時です。今から40年以上前の話です。印象は学者にしてはおしゃれでした。私の先生はあの人はマスコミ受けするけれど学会の評判は良くないよと言っていました。
 
 さて今日も教育の話です。今回辞任した大阪府知事さんは教育に関する革命的な条例を出すようです。細かいことはここでは触れませんが、昨日書いた教育における能力主義教師版と言ったところです。能力主義成果主義はすでに企業ではその弊害が分かってきて見直されつつあるのに時代逆行の気もするのですが。
 
 タイトルと教育の話がどうつながるのかとお思いの方もあるでしょうから、それについて書きます。おじさんは大学紛争が始まってから、ずっとこの行方はどうなるのか関心がありました。それ以後の歴史を知りたいと思ったのです。そして教師になりました。だからその時代その時代に起こったことは良く覚えています。
 
 今の若い方は信じられないと思いますが、まじめに教師は労働者でなく聖職者であると考えられていた時代があったのです。今頃教師の仕事は聖なるものだと言っても笑われるだけです。教師は労働者だと言った時反対したのは、自民党だったのです。
 
 実は、教師の超過勤務手当が問題になった時、当時の自民党の人は教師は聖職者で教師の仕事を一般労働者と同じに考えるべきでない。教師は基本的に全ての時間を教育に使うべきだと考えたのです。ですから、もちろん無限の勤務時間を強制できないが、時間を切り売りするようなことは許されないとしました。
 
 その代り教師には特別な手当を支給して超過勤務手当の代用とするとしたのです。その手当は当時の立法趣旨は忘れられて既得権益として今でも支払われています。現在は教師は当然公務員の一職種(教育職)として扱われています。他の職種は行政職(事務)医療職(医者・看護師)公安職(警察)などがあります。
 
 考えてみれば、おじさんが先生になった頃はそれなりに尊敬されたものです。年齢は若くても年上の保護者からも敬意をもって接してもらいました。給料は安かったけれど、うれしかったです。考えてみれば、他の聖職に近いもの、あるいは本来の聖職自身も資本主義に浸食されつつあります。
 
 先日見た雑誌にも戒名の代金を明示していました。戒名をつけるという行為はまさに宗教的な行為なのですが、その値段をつけること自身すでに戒名が聖なるものではなくなっているのでしょう。医者や弁護士(法律家)も聖職に近いものでした。
 
 そもそも中世の大学は法学部・医学部・神学部から成り立っていたのです。後に文学部も加わりますが。日本でも大学というのは、仏教を学ぶ寺院か儒教を学ぶ藩校などからなりたっていました。現在は全てが効率と評価の時代です。医者になった教え子も継続して入院した方が良いと思うのだが、上からできるだけ効率よくベッドを明けるようにいわれるそうです。
 
 裁判所でも出来るだけ多くの事件処理をしなければ評価に響くそうです。人間が人間を評価することは極めて難しいのは民間企業の報道を見ても分かります。民間企業の場合利益が出るかどうかで比較的評価しやすいと思うのですが、それでも難しいようです。
 
 ました教育現場で、良い先生悪い先生など簡単に決められるのだろうかと思います。おじさんは学校では文人派でした。つまりお勉強をして大人しくまじめな生徒が好きなタイプです。しかし、体育系の部活を指導する先生は、すこしやんちゃで勉強ができなくても、放課後ばりばり運動をする生徒を好むタイプの人もいます。
 
 おじさんは進学指導に重点を置くので、もしおじさんが評価者になればおじさんと同じような立場にたつ先生を高く評価するでしょう。逆にスポーツなどで成果を得たい評価者なら別の評価になると思います。実はどちらの先生も学校には必要なのです。
 
 やさしい先生がいて厳しい先生がいて、勉強に熱心な先生がいて放課後のスポーツなどの部活動に熱心な先生がいて、どちらでもない先生がいていいと思います。学校は子供が将来出る社会のモデルだと思います。社会に素晴らしい人ばかりがいるわけではありません。様々な人がいて社会は成り立っていると思います。
 
 塾や予備校のカリスマ教師を称賛し、公立学校の教師を非難しますが、おじさんの経験ではどんなカリスマ教師でも、勉強の意欲のない学生ばかりが集まった教育困難校で実力を発揮するのは難しいでしょう。このような学校で必要なのは知識やうまい教え方ではなく、生徒一人一人の心の中に入っていくことなのです。教育困難校にこそ本当の教育の姿があるという教師もいます。(ある部分真実だと思います。学んだ知識でなく、教師の全存在が問われるからです。)
 
 難易度の高い学校へ生徒を送り込むテクニックがあっても、意欲関心のない生徒には通じないのです。良くいわれるのが「馬を水辺まで連れていけるが、無理に水を飲ませることはできない」という言葉です。大阪府の教育条例が通過すれば、大阪の教育界の未来は暗いものなるでしょう。
 
 明日は本屋さんに行って雑誌を読みます。