新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

なぜ公務員は「法律の家来になるのか」

今日は一日中雨でした。それにこれまでと違って肌寒い1日でした。先日北京外国語大学の日本学センター大学院に行っている学生さんからメールが来ました。卒業生を出して帰国し半年が過ぎたのに、現状を報告してくれる卒業生がいてうれしいです。

 彼女は私の指導学生(日本でいうゼミ生)です。太宰治の「人間失格」と「斜陽」の人物比較を卒論で取り上げました。今大学院では古典文学にするか近代文学にするか専攻を迷っているそうです。いまのところ古典文学にするようです。

 ちなみに、北京外語大学の日本学センター大学院は、中国の日本語教育の最高峰です。大学としては、精華大学や北京大学が有名ですが、日本語教育ではこの大学院が中国トップです。おじさんもこの学生さんが合格した時には、本当にびっくりしました。おじさんがいた大学の日本語学部はまだ創立10年ちょっとの新しい学部だったからです。

 ところで、先日も書いたように、やはり外国為替市場も株式市場も一段落です。もしかすると来週は対ドルで81円、日経平均で1万円台割れになる可能性があります。おまけに配当落ちもあるので、来週大きく相場が上昇することはなさそうです。

 さて、今日は朝日新聞の記事について書きます。以前から書いているように、おじさんは教育行政及び教育法を専攻して修士の学位を取りました。それに、図書館長や庶務主任をしている時、事務の人たちと一緒に仕事をしました。それで、本来は国語教師なのですが、行政的な発想にも通じています。

 教師は公務員ですが教育職と呼ばれ、余り法律と関係ない世界で生きています。事務の人は行政職で、まさに全て法律に従って生きています。おじさんたち教育職側から見ても、行政職の人は細かいし融通がききませんでした。

 今回の記事にも、融通が利かない例が3つ掲載されていました。一つは数がそろわないから不平等になるので、数がそろうまで、品物を配らないと言った例。大勢に避難している人に対して炊き出しをしているのに、保健所の人が見回りに来た例、暖房器具や食べ物を温めるのに大幅な制限があった例、などです。

 記事を書いた人は朝日新聞の盛岡支局の人でした。これを読んだ方は何と公務員は融通が利かない石頭なのだろうと思ったでしょう。そして、ほとんどの場合公務員特に行政職の人は何を言われても反論しません。反論しても無駄だと思っているのか、それとも反論すればさらに公務員叩きに拍車がかかると思っているからでしょう。

 おじさんが、行政職の人と一緒に仕事をしなかったら、多分新聞記事を書いた人と同じ気持ちだったでしょう。同じ公務員なのにです。そこで行政職の人に代わって、少し書いてみたいと思います。まず平等・不平等の問題です。これは直接行政と関わらないのですが、経験的に公務員の人は、知っているのです。

 つまり、住民の人は貧しきことを憂うのではなく、等しからざるを憂うからです。ある数しかない場合、誰にそれを配るのかはとても難しいです。たまたまある場所に集まっているだけで、それぞれの個別の事情がわかりません。例えば高齢者に配るとしても、まず年齢が分かりません。

 また年齢が上でも元気な人もいるし、若くても弱っている人もいます。もし機械的に年齢だけで分けたら、若くても弱っている人は、不満を持つでしょう。なぜ自分の妻に配ってくれないのか。外見は丈夫そうだが、内臓器官に重大な病気があるのにと言うかもしれません。

 ずいぶん以前読んだ記事に、ある有名人が避難場所を訪問してグッズを配ったそうです。そこに慰問に来ていた子供がいて、そのグッズを貰ったそうです。後で、避難している子供が貰えなくて、慰問に来た子供が貰うのはおかしいという意見が出て、慰問に来て貰った子供が返したそうです。

 すると別の人がそんなことを言うのは大人げない、貰った子供も悪気はなかったはずなのにと言って論争になりました。こんなどうでも良いことに巻き込まれないために、役所の人(公務員)は平等をとにかく貫くのです。公務員の人なら誰でも公平の重要さを経験的に知っているからです。

 また、炊き出しの件でもそうです。もし、何かの理由で炊き出し中にお腹を壊したりした人がでたら、大変なことになります。炊き出しをした人は親切からしたことでも、問題が起これば保健所は何をしていたのかとマスコミから袋叩きにあいます。炊き出しをしていると分かっていたのに、管理をしていなかったのかと言われるでしょう。しかし、保健所もそれどころでないほど忙しいのです。

 暖房器具やコンロなどの問題も同様です。確かに温まるのは良いのですが、もし火災が発生でもしたら大変です。学校や公民館などは、場所ごとに火元責任者を決めています。ところが避難場所のようなところでは、火の管理がとても難しいのです。

 公務員は原則として自分の判断で何もできないようになっています。なぜなら自分の判断でやったことで大きな事故が起これば、その責任は全て個人が被ることになります。もし炊き出し中に善意だからと言って、ある保健所の職員が上司の許可なく認めて、食中毒が発生したらその責任はすべて許可なく認めた職員にかかってきます。

 そこまでの責任を一公務員が負うことはできないのです。もちろん、生きるか死ぬかのような緊急の場合は別です。その場合は法の定める緊急避難の条項が摘要されるでしょう。しかし、避難所のような場合は、やはり今ある法律が優先するのです。

 逆に個人の判断で公務員が動くようになった時の方が危険です。行政が恣意的に行われる可能性があります。たとえば同じ市内でも、分配の経験が豊富なベテランの職員の担当する避難所には、多くの品物が集まって、若い職員の担当する避難所だと品物が届かないというのでは困ります。。

 行政にとって、不満が爆発して問題が広がるのが一番困るのです。民間では失敗しても、後でやり直しがききますが、行政の場合そうでないことが多いのです。特に緊急時にはそれが言えます。それに住民自身が、行政には公平、無謬(間違いがない)を求めます。

 公平・無謬と迅速を両立させることは無理なのです。今回の投資会社の不祥事でも、行政の監督責任を問う声があります。行政は何をしていたのかと言うのです。とにかく現代は何をしてもまず行政の責任が問われます。その風潮の中では行政は、自分の身を守るために、消極主義でいくしかないのです。

 明日はのんびり過ごします。