新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

成人式の思い出ー昭和43年大学2年生の頃とその後

今日は午前中は寒かったのですが、午後はすっかり暖かくなりました。午後から本屋に行きました。中央公論文芸春秋それに経済週刊誌の新しいものが出ているからです。

 もちろん購入ではなく立ち読みのためです。余りに変化が激しいので、月刊誌などは書かれて内容と現実がすでにかい離していました。都知事選が話題になっていますが、月刊誌などはまだまだそこまで行きません。週刊誌にしても今最大のポイントである、細川ー小泉連合についても触れていません。

 正式に細川ー小泉連合が発表されたわけではないので、仕方のないことです。さて今日は成人式です。以前は1月15日と決まっていたのですが、祭日を増やす目的で第二日曜日の次の日になっています。

 おじさんも自分の成人式の頃を思い出しました。当時は学年でなく年ごとだったので同級生と同じ年ではなく1年下の人たちと同じ成人式でした。おじさんは2月生まれなので、そうなるのです。

 今は学年ごとに成人式をしています。20歳と言えば大学2年生の終わり頃です。当時の大学は2年まで教養科目が中心でした。専門科目のほとんどは3年になってからです。単位を1年の頃相当修得していたので、2年は結構暇でした。

 大学にも慣れてきて、知り合いも増えました。今と同じでサークル活動とアルバイトに時間を使っていました。サークルは心理学研究会です。今でもあります。数年前珍しく大学の地方支部の同窓会に行ったら、心理学研究会出身の若者に出会いました。

 45年以上前にあったサークルなのに良く生き残ったものだと思いました。アルバイトは家庭教師が中心です。1年生の頃はさすがに家庭教師がなかったので、コーラの販売やバスの座席組み立てなどのアルバイトをしました。コーラ販売は教師になって、人前で話すのに役立ちました。

 バスの座席組み立てのアルバイトは現場作業の大変さを理解させてくれました。1年生の終わり頃卒業する先輩からそれまでやっていた家庭教師を引き継ぎました。18歳の終わり近くです。生まれて初めて親御さんや子供から「先生」と呼ばれました。

 それから47年経過した今でも「先生」と呼ばれています。原点は18歳で始めた家庭教師です。その後いろいろな方から家庭教師を紹介してもらい、最大1週間で3軒行っていたこともあります。中学生がほとんどですが、中には高校生も教えてことがあります。

 バイト料は当時としては破格の値段でした。当然で高校2年生の数学と英語を教えていたのですから。なぜ国文科のおじさんが英語と数学を教えることができたのか不思議です。と言ってもその生徒さんは地域2番手の県立普通高校の人です。

 紹介してくれたのは、高校時代の担任の先生です。途中でクビにならなかったところを見るとそれなりにやれたのでしょう。家庭教師をやったおかげで、大学を卒業する頃には初任給1月分くらいの預金ができました。今のへそくりは、それが出発点です。

 4月から大学3年になり本格的な専門科目が始まりました。今の学生さんとは比べ物にならないくらい専門性の高いものでした。今国文学を専攻している学生さんでも聞いたことのない古辞書(平安時代から江戸時代までに作られたもの)を使ってゼミの調べをしていました。

 大学3年の1年間は本当に充実した時でした。次に充実した学びの時は53歳から行った大学院です。これも楽しかったです。さらには59歳で日本語教師養成講座に行きましたが、素晴らしい仲間に会えました。最後は去年64歳で出身校の大学院で環境考古学の授業を受講した時です。

 学生さんは3人でしたが、楽しかったです。こう考えると普通の人は勉強が苦になるのでしょうが、おじさんは勉強が本当に好きなのだと思います。(数学や理科は嫌いですが)

 好きな事(勉強)を仕事にできて一生を過ごせたことは本当に幸せだと思います。悔いの残る人生と反対の何の後悔もない人生を送れました。そういう点では運の良い人間だったと思います。

 明日は試験問題作成をします。