新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

母の日で思うこと

昨日から娘(長女と次女および孫)たちが来ていました。それで忙しくてブログを書くことができませんでした。二女と孫は昨日帰りました。長女は今日帰りました。

 今日は日曜日なので本来は教会ネタなのですが、母の日なのでわが母と兄弟について語ることにします。そう言えば以前おじさんがいた中国でも母の日がありました。軍隊でも若者が母親に電話する風景がテレビのニュースで放映されていました。

 クリスマスはもちろん、バレンタインも祝われています。さてわが母ですが、17年前80歳でなくなりました。生きていれば97歳です。死の3年前まで同居していた長兄から後3年くらいの命だから覚悟していてくれとある時連絡がありました。

 母はもともと今住んでいる街から離れた農村部に住んでいました。実家は金物を商っていたようです。母親の実家の父(おじさんの祖父)は教育熱心な人で娘4人と息子一人を高等女学校や中学に進学させました。

 祖父自身も地元の中学に進学したのですが、1県3校に統合という県の緊縮財政の余波で通っていた学校が廃校となりました。もし中学に進学するなら県庁所在地の旧藩校が元になる中学に行かなければならなかったようです。

 その話は10年くらい前おじさんの県の教育100年史で見ました。もしその学校に行っていたらすごいと思いました。その学校は後に首相を出したり大臣を出したりしている学校です。親戚の人が商売人の息子に学問はいらないと言ったからだそうです。今なら望んでもなかなか入れない県内随一の進学校です。

 一人いたおじさんは若い頃なくなったそうです。残りの4人姉妹の末っ子が母です。すぐ上の姉にあたる人は美人の上に秀才でした。地元のお医者さんの家からうちの息子の嫁になるなら女子医専(東京女子医科大)に行かせてやると言われたほどです。

 断ったそうですが、医者になるのが夢だったそうです。祖父がそんな学業を断念した経過があって、長女の御婿さんとすぐ上の姉の御婿さんは高校の先生でした。

 次姉の御婿さんは教育部の視学官だったようです。ところがわが母だけは女学校を卒業後就職した某鉄鋼メーカーで父と知り合い結婚したそうです。親は教師を希望していたのにがっかりしたとの話でした。(すぐ上の姉の話)

 父は優秀な社員で敗戦後まもない頃民間航空が開始されました。その飛行機に乗って東京に出張していたようです。(母の話)父は昭和29年に病気で亡くなったのですが、ゴルフをしている姿の写真が残っています。

 今なら普通ですが、敗戦後やっと国民が食えるようになった時代にゴルフをしていたのですからすごいと思います。おじさんが中学の時友人の家に行ったら君のお父さんを知っているよ、早くなくなって残念だったねと言われたこともありました。

 その友人のお父さんも同じ会社の人だったのです。母は42歳で父と死に別れてその後苦労しました。父の友人のお世話で某鉄鋼商社に就職できました。それで4人兄弟のうち3人を大学にやりました。

 長兄だけは弟のために高校卒業後父の勤務していた会社の関連会社に就職しました。おじさんも経済学部に進学してやはり父の関連企業に就職するよう勧められましたが断って文学部に進学し先生になりました。

 次兄はやはり父の会社の関連の専門商社に就職し取締役までなりました。(一応一部上場企業です。)母はこうして息子たちが成長していく姿を見て安心していました。

 もともと英語が好きだったので結婚する前は英文タイピストをして仕事をしていました。70歳になってもNHKの英会話講座を聞いていました。それでお葬式の時メガネと英会話のテキストを入れました。

 弟は自衛隊の行政職になりました。地連の課長までなりました。お嫁さんは自衛隊の看護師さんでおじさんが知っている頃は一尉でした。

 いつも母の日になると亡くなった母の生涯と兄弟たちのことを思い出します。明日は雨の予想なので家でのんびり過ごします。