新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ベタニアで香油を注がれる話

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。ブログで聖書や教会について書くことで自分自身の聖書観や教会観を振り返ることができます。

 何気なく読んでいた聖書箇所もブログを書くためにもう一度振り返ることができるのです。今日のベタニアでの出来事もいろいろ考えさせられました。

 聖書箇所はマルコ福音書14章3節以下です。イエスはその時ベタニアという村のシモンの家にいました。シモンは重い皮膚病を患っていて当時イスラエルの人は近づかなかったのです。そんな人のところにもイエスは出かけて行きました。

 そして、そこで一人の女(別の聖書箇所・・ヨハネ福音書ではマリア)がイエスに頭に香油を振りかけます。問題はそれを見た人たちの態度です。

 これは現代人でもよく思うことです。その時人々は「なぜ、こんなに香油を無駄使いにしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人に施すことができたのに。」と言うのです。

 現代のキリスト教会の一部に、礼拝後教会で聖書の話をするより、社会に出て行って困っている人のために働いた方がよいとか、伝道より社会活動の方が重要だと主張するグループもあるのです。

 イエスはこの女の行動について批判したのでしょうか。私に振りかけるより、売って困った人のために使いなさいといったのでしょうか。300デナリオンというの300万円くらいの価値なのです。

 一デナリオンというのは大人の労働者一日分の給与なのです。単純に一日1万円と考えると分かりやすいです。イエスは「なぜこの人を困らせるのか」と言います。この女は「わたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と言います。

 また「貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる」とし逆に私は「いつもいるわけではない。」と言うのです。キリストの考えでは、まず私とのかかわりを第一にしなさいということです。

 さらに「世界中どこでも福音が述べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」とまで言います。

 教会生活と社会活動どちらが大切かという問いに相応し答えの箇所です。もう一つおもしろいのは他の福音書の記事との比較です。マタイ・ヨハネ福音書に同じ記事があります。マタイ福音書の記事はマルコ福音書の記事とほぼ同じです。

 それに対してヨハネ福音書の記事は大きく異なっています。記事の内容はほぼ他の福音書の記事と同じなのですがこの女を非難した人が特徴的です。

 後にイエスを裏切るイスカリオテのユダなのです。これはマタイ・マルコにはない記事です。おまけにイスカリオテのユダが女を非難したのは「貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたから」なのだとするのです。

 ヨハネ福音書では他の福音書に比べてイスカリオテのユダに関する記事が多いです。ヨハネ福音書では他の弟子たちが気づかないユダのことまで書いています。(最後の晩餐の時ユダが裏切る場面)

 ヨハネ福音書は概して文学的な表現が多いような気がします。一つの記事について、他の福音書がどう扱っているのか調べてみるとおもしろいです。

 明日の株式相場や外国為替相場はどうなるのか今から気になっています。