ベタニアで香油を注がれる話
今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。ブログで聖書や教会について書くことで自分自身の聖書観や教会観を振り返ることができます。
何気なく読んでいた聖書箇所もブログを書くためにもう一度振り返ることができるのです。今日のベタニアでの出来事もいろいろ考えさせられました。
聖書箇所はマルコ福音書14章3節以下です。イエスはその時ベタニアという村のシモンの家にいました。シモンは重い皮膚病を患っていて当時イスラエルの人は近づかなかったのです。そんな人のところにもイエスは出かけて行きました。
これは現代人でもよく思うことです。その時人々は「なぜ、こんなに香油を無駄使いにしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人に施すことができたのに。」と言うのです。
現代のキリスト教会の一部に、礼拝後教会で聖書の話をするより、社会に出て行って困っている人のために働いた方がよいとか、伝道より社会活動の方が重要だと主張するグループもあるのです。
イエスはこの女の行動について批判したのでしょうか。私に振りかけるより、売って困った人のために使いなさいといったのでしょうか。300デナリオンというの300万円くらいの価値なのです。
一デナリオンというのは大人の労働者一日分の給与なのです。単純に一日1万円と考えると分かりやすいです。イエスは「なぜこの人を困らせるのか」と言います。この女は「わたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と言います。
また「貧しい人はいつもあなたがたと一緒にいる」とし逆に私は「いつもいるわけではない。」と言うのです。キリストの考えでは、まず私とのかかわりを第一にしなさいということです。
さらに「世界中どこでも福音が述べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」とまで言います。
教会生活と社会活動どちらが大切かという問いに相応し答えの箇所です。もう一つおもしろいのは他の福音書の記事との比較です。マタイ・ヨハネ福音書に同じ記事があります。マタイ福音書の記事はマルコ福音書の記事とほぼ同じです。
後にイエスを裏切るイスカリオテのユダなのです。これはマタイ・マルコにはない記事です。おまけにイスカリオテのユダが女を非難したのは「貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたから」なのだとするのです。
明日の株式相場や外国為替相場はどうなるのか今から気になっています。