祈りについて考える。
今日は日曜日なので教会でした。以前行っていた教会です。今日の説教はルカ福音書11章1節からです。有名な主の祈りについて書かれています。
両福音書の細かい違いは別にして主の祈りについて考えてみたいと思います。現在教会で用いられている主の祈りの始まりはまず、誰に祈るのかです。
鰯の頭も信心からと言います。信心さえあれば鰯の頭でも良いという意味です。日本の場合現在でも巨石信仰や巨木信仰があります。
ですから祈る相手は父なる神です。そしてまず主をほめたたえます。「み名が崇められますように」といいます。次に神の国の到来を祈ります。
こうして神に対する崇拝が終わった後自分たちのことを祈ります。まず自分たちの生活についてです。ルカ福音書によれば「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」と祈ります。教会の主の祈りでは「日用の糧を今日もあたえたまえに」となっています。
信仰者も毎日生活しているのですから、日々の生活が滞りなく進むように祈るのです。私も毎日自分や子供達などの健康と経済を祈っています。
神社の無病息災、商売繁盛の祈りならここで終わるところですが、キリスト教の祈りはさらに続きます。それは人間の罪の問題です。
人間は本当に罪深いものです。この場合の罪は犯罪の意味ではありません。神から離れて人間の力だけで何とかしようとする罪です。
実は人間の力は本当に弱いもので、とても神に代わることはできません。罪人である人間が自分の罪も含めてすべての罪を許すことはできないのです。
それができるのは神だけなのです。神なき現在人々は罪に苦しんでいます。罪の赦しを与える存在がなくなったのです。
聖書はまず「私たちの罪を赦してください。」といいます。次に自分の罪は許してもらいたいのに、人の罪はゆるさないという姿勢を拒否します。
「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と他者の罪も赦すといいます。しかし、日本の社会ではこの思想がありません。
よく水に流すといいますが、日本人は結構恨みを持ち続けます。おじさんも日本人なので罪の赦しの思想のなさを実感します。
最後に「わたしたちを誘惑にあわせないでください。」と言います。確かにこの世は誘惑に満ちているのでこの通りだと思います。
いつも書いているように、毎回書の祈りを唱える旅に自分の罪の深さを実感しています。明日は中学の仕事です。