新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ギャングエイジの思い出ー団塊の世代の少年時代

 今日は1日中不安定な天気でした。朝はにわか雨が降ったり、午後には晴れたり、またにわか雨になったりです。金曜日からは前立腺の検査入院なので、今週は余り元気が出ません。前立腺は自覚症状が出るのが相当遅いので、今はたとえ悪くても自覚症状はありません。
 
 3年近くお医者さんにかかってはいるのですが、ただ検査して様子をみましょうというだけです。今回は生検なので、少しはっきりとすると思います。ところで、中国の大学で指導して日本の大学院に留学している学生さんのお祖母さんがなくなったようです。
 
 学生さんの田舎に行った時お会いした方(といってもおじさんより1つ歳下)なのでとてもお気の毒です。学生さんは、子供の頃からかわいがってもらっていたので、とても悲しんでいました。どうも、大きな病院に入院するなど、十分なことができなかったようです。
 
 現実に中国に生活してみて、事情は良く分かります。日本の現状だけしか知らない読者の方には理解しにくいので詳しいことは書きません。
 
 さて、昨日おじさんの少年時代のことをちょっと書きました。それでもう少し当時の小学生と現代の小学生についての比較を書いてみます。現代の若者や評論家の中には団塊の世代について、批判的な意見は時に敵意を持つ意見もあります。
 
 現代の若者とは全く違った少年時代を過ごしたのです。そのため、現代の若者とは随分違った人格形成がなされたと思います。まず当時は同世代だけで遊ぶことはありませんでした。(ここでいう少年時代とは小学生の時代の事です。)
 
 小学生時代の遊び場は近くの公園でした。今みると小さな公園でしたが、小学生の時代には、もっと大きく見えました。理由は大人になっての背丈と子供時代の背丈は随分違うからです。たとえていえば、大人がかがんで公園を見た時の広さなのです。
 
 おじさんの公園の場合、小学生が20人くらいいました。当時は1つの家族に子供が平均3人くらいいました。ちなみにおじさんの家は4人です。ですから、近くに小学生のいる家庭が6、7軒あればすぐ20人近くになったのです。公園は一つの領地のようなものでした。
 
 当時はビー玉(ラムネの玉で、おじさんの地方ではランチンが訛ってダンチンと呼んでいました。)や写真(野球選手のプロマイド)、パッチン(メンコとも呼ばれます。)、軍人(軍隊を描いたカード)などという今は懐かしい子供向けのゲーム(遊び)がありました。皆放課後そこに集まってやっていました。ところが、時々他の公園から遠征してくる連中がいました。同じ公園内なら誰が勝っても、同じグループのビー玉や写真、パッチン、軍人がぐるぐる回るでけですが、外から来た連中なら二度と戻ってはこないのです。
 
 公園のベストメンバがこの外から来た連中の相手をしました。それに、他の子供がいる公園に行くのはとても緊張したものです。それぞれの公園ではリーダーがいました。リーダーは6年生の中から自然に選ばれました。そして、6年生は下級生をまとめて、トラブルを解決し、その日の遊びは決めたりしました。
 
 おじさんが今でも覚えているのは、6年生が卒業する前に、リーダーが公園のメンバーを集めて、土管のようなものの上に座って、おれたちはもうすぐ卒業する。この後もこの公園を次の学年がまとめてくれと演説しました。63歳になった今でもその時の光景を思い出します。
 
 以前人生を砂場で学んだみたいな名前の本を見たことがあります。それに倣うなら「人生や社会を公園で学んだ」とでも言えるでしょう。おじさんが大学院で運営組織について修士論文を書いたのも、そのような組織的行動を小学生時代からやっていて、興味を持ったからです。
 
 おじさんたちの時代は、どこでもそんな風景が見られたものです。団塊の世代がすぐ群れたがるとか、組織を作りたがるというのは、このような体験があるからです。また日本中どこでも同じような体験をした世代だからです。
 
 それより前の世代は、敗戦後すぐの時代でそんな余裕はなかったし、それより後の世代は塾や稽古ごとに行くようになり、まもなく少子化がはじまります。小学生後半の男の子たちが、閉鎖的なグループを作る時代を、ギャングエイジといいます。
 
 おじさんは大学生の頃このギャングエイジの本を読んだことがあります。今はギャングエイジはありません。今は同世代しか遊ばないそうです。現代の40代くらいの大人の方までそんな経験があるのかもしれません。明日は、また就職活動です。