新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

戦争の思い出

 今日も一日中強い雨でした。本当は義母のために公証人役場に遺言状の作り方を聞きに行く予定でしたが、中止です。それで1日中家にこもっています。昨日もそうで2日続いて家にお籠りです。この雨で風邪でも引いたらばかばかしいので仕方ありません。
 
 それで毎日図書館から借りてきた本を読んだり、次女が置いていった本を読んだり、テレビを見て過ごしています。もちろんインターネットの評論サイトも毎日みています。(JBプレス・現代ビジネス・ダイヤモンドオンライン・アゴラなど)株価は少し上がりましたが、おじさんの持ち株は連日年初来安値を更新して含み損はさらに拡大しました。
 
 この調子では秋までどうしようもないようです。株価については考えないことにしています。ツマクマは儲かっているうちに売ればよかったといいますが、勝負事は利益が出ている途中で降りるのは難しいものです。
 
 さて今日は最近読んだ本で感動したもののお勧めからです。「永遠の0百田尚樹講談社文庫です。特攻で死んだお祖父さんの人生を調べる物語です。おじいさんのことを知っている戦友を訪ねてその人生を明らかにしていくのです。そこでは、特攻隊や当時の海軍の様子が描かれます。小説ですが、当時の戦争の様子があたかもノンフィクションのように描かれています。
 
 戦争を描いた本は多いのですが、読後の印象としてはとてもさわやかなものでした。特攻隊については色々な評価がありますが、客観的な評価でとても参考になりました。
 
 そこでおじさんの戦争の思い出について今日は書こうと思いました。おじさんは戦争が終わって3年して生まれました。まず父親と戦争について書きます。父も戦争に参加しました。母親の話しでは結核を患ったので、自分が戦争に行くのはいよいよ最後だと言っていたのですが、戦争の半ばくらいには招集があったそうです。
 
 2等兵から出発して、敗戦時は兵長だったそうです。大してえらくもなりませんでした。兵科は工兵のようです。戦争の置き土産として、工○○と書かれた飯盒が家にありました。○○はおじさんの姓です。外地へも行かず、終戦は宮崎で迎えたそうです。
 
 戦争時代の写真も1枚ありました。部隊全員でうつっていました。父親はおじさんが小学1年の時に死んだので、父親から直接戦争の話しを聞いたことはありません。戦争の置き土産として、もう一つあったのは弾薬箱が踏み台として残っていました。義父は中国戦線に出たそうです。野戦重砲だったそうで、馬の手入れをしている写真がありました。(重砲は馬で移動させてようです。)
 
 義父は造兵廠(兵器製造工場)の技術者だったので、短い兵役期間で内地に帰ってきました。私の叔父さんはえらかったそうで、准尉までなったそうです。おじさんの結婚式の時学徒動員で戦争に参加し、ポツダム少尉(戦争が終わった時お疲れさんの意味で少尉になった大学生のこと)だった担任の先生が、叔父さんに「戦争中の階級は」と聞いて叔父さんが「准尉でした。」と答えたら、そうですかと言って尊敬のまなざしで見ていたのを覚えています。
 
 御若い読者の方には理解できないかもしれませんが、准尉は2等兵から叩きあげて行きつける最高の位なのです。兵隊の神様とも言われていました。私もあのおだやかで、物静かな叔父さんが、准尉までなったというのは驚きでした。母もあの叔父さんが、長い剣を下げて家に来たことがあると言っていました。兵科は衛生兵だったそうです。まじめで、おだやか、かつ何事にもきちんとしている叔父さんにふさわしい兵科だと思いました。兵隊が命を託すのが衛生兵ですから、やはり信頼できる人間になってもらいたかったのだと思いました。
 
 以前書いたように、別の叔父さんはサイパン島で戦死しました。おじさんの実家には「遺族の家」というプレートが貼ってありました。最初何かと思ったのですが、後で意味を知りました。また昭和30年代の初めくらいまでJRの駅前などで、白い服を着た傷痍軍人(戦争で手足を失った人)の人がアコーデオンをひきながら、お金を乞うていた風景を今でも思い出します。今思い出しても物哀しい風景でした。
 
 学校では(中学・高校)では戦争体験のある先生が大勢いました。ちょっと年配の先生は招集で戦争に参加し、若い先生は学徒動員で戦争に参加しました。物理の先生は戦車隊にいたとうわさされていました。生物の先生は、予備士官として戦争に参加し、爆撃で生き埋めになって死ぬところだったと話してくれました。
 
 おじさんの担任の先生は、医学部の予科の学生だったのですが、学徒動員で戦争に参加しました。馬にのって行進中アメリカ軍の戦闘機に機銃掃射されて死ぬところだったと言います。アイスキャンデーのような機関銃の弾がすぐ横を飛んできたという話しを授業中にしていました。
 
 昭和30年代後半まで戦争はすぐそばにありました。幼稚園の頃は朝鮮戦争が勃発していました。おじさんにとって旧日本軍よりアメリカ占領軍の方が思い出深いです。当時おじさんの街にもアメリカ占領軍がいたのです。この思い出はまた別の機会に書きます。
 
 明日は市の無料検診に行きます。