新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

3Kの昭和30年代

 今日は午前中は天気だったのですが、午後からくもり出し、夕方には雨になってしまいました。株価は相変わらず小動きです。今日は午前中は前立腺の検査で午後からは大学でした。
 
 帰ってきたのが、夜8時(授業は6時半まであります。)でそれから夕食とテレビ(日本シリーズ)で過ごしてしまい、今頃になってこれを書いています。内容はいつもたいしたことはないのですが、毎日書くことを日課にしているので今書いています。
 
 さてタイトルの3Kとは何でしょう。苦労・汚い・危険の頭文字です。昭和と言うとなんだかメルヘンチックな感じがしますが、おじさんの少年時代である30年代は上記したような時代なのです。日本人はちょっと前ののことでもすぐ忘れてしまいます。大人(中高年あるいは高齢者)の責任なのかもしれません。
 
 どうも自分がした苦労や貧しかった時代の話をしたがらないようです。昭和30年代とは高度成長期のちょっと前の時代です。おじさんは昭和28年に小学校入学、昭和35年に中学入学、昭和38年に高校入学です。ですから、昭和30年代とは小学3年生から高校2年生までの、少年時代なのです。
 
 苦労あるいは貧しさと言ってもよい時代です。今考えれば信じれらにことばかりです。何と小学生が納豆売りや豆腐売りをしていました。おじさんも日曜日友達について売りに行ったことがあります。今なら即学校なり警察なりに電話が入るところですが、おばさんが「えらいね。家の手伝いをして」と言って買ってくれていたのです。
 
 中学生になると新聞配りをしていました。(おじさんもしたかったのですが許してもらえませんでした。)それから、今はやりの引きこもりもパラサイトもいませんでした。引き込もりやパラサイトを受け入れる雰囲気も余裕もありませんでした。皆必死で生きていました。不登校もよほど家庭的な事情がないかぎりありませんでした。
 
 昭和20年代では、鉄くずや鉛管などを拾って屑鉄屋に持って行って買ってもらっていました。30年代になるとそこまではなかったような気がします。靴磨きの人もいました。リヤカーで古新聞などを回収する人もいました。皆色々なことをして働いていました。(現代中国の労働者を見た時なつかしかったです。)
 
 次のKは汚いです。現代日本はとても清潔です。いやな臭いは極端に嫌われます。しかし、昭和30年代の日本は清潔好きな現代の若者 には耐えられないものでしょう。まずトイレは基本的にくみ取りでした。昭和30年代の初めは柄杓で汲んで桶に入れて運んでいました。後にバキュームクリーナーで吸い取るようになりました。糞尿は皆海に捨てっていました。
 
 ちょっと郊外に行くと畑がありました。畑には肥たごがありました。肥たごにはウンチや草などが入っています。遠足で郊外に行くと匂ってきます。「田舎香水」と呼んでいました。これは畑の野菜などに肥料としてかけるのです。現代の若者がそんな野菜を見たら、とても食べれないと思います。
 
 当時の外国人特にアメリカ人はそんな野菜を食べず、特別に栽培した野菜を「清浄野菜」と言って食べていました。途上国の野菜などは不潔で食べないなどと現代の日本人は言っていますが、つい数十年前の日本もそうだったのです。寄生虫が多かったので、虫下しというのもありました。小学校の低学年の頃だったと思いますが、虱がいるというので、長髪の男の子や女の子に運動場でDDTを振りかけていました。
 
 その代わり物価も安かったです。ラーメン1杯60円とかうどん1杯30円の世界です。考えてみれば現代中国で麺が1杯6元(72円)粥が1杯2元(24円)初任給が2500元(三万円)ですから、ちょうど昭和30年代の物価なのです。
 
 最後のKは危険です。当時は交通戦争と言って現在の何倍もの人が交通事故で死にました。神風タクシーと言って乱暴な運転をするタクシーがでたのもこの頃です。確か100人以上の人が死んだ列車事故があったのもこの頃だと思います。トラックの規定以上に荷物を積んでいたので、取り締まりがあっていました。(これも現代中国そっくりです。)
 
 現在よく少年犯罪について悪質化したなどと言いますが、昭和30年代の比ではありません。おじさんの出た中学は住宅街にあってその街の学習院と言われるような学校でしたが、それでも中学生が武装していました。同級生に暴力をふるったりはしませんでした。
 
 よその中学から殴り込みに来たり、こちらが仕返しに行ったりしていました。武器はチェーン・ナイフ(おじさんのちょっと前の世代まで飛び出しナイフを持っていました。)やっぱ(先がとがって相手を刺す)木刀・バットなどです。おじさんは文人派なので(本好きで有名だったので)誘われませんでしたが、やんちゃな弟などは、「お前も出入り・・喧嘩のこと に付き合え」と言われたそうです。でも兄貴たち(おじさんや長兄のこと)から怒られると断ったそうです。
 
 町を歩いていると恐喝にあったりしました。数人で列になって近寄ってきて、逃げられないようにして「ちょと金を貸してくれ」というのです。今そんな話は聞いたことがありません。これも同級生を恐喝したりはしません。全て別の中学の生徒なのです。これはおじさんの体験です。
 
 当時は不良と呼んでいましたが、そんな連中でも仲間意識があって、同じクラスや同じ学校の連中には手を出しませんでした。当時は兄弟が何人もいて、同級生の兄などが、上級生でいるので手を出すと面倒だったからかもしれません。
 
 当時でも上級生は怖いので、へたに同級生を恐喝などすると、兄貴やその友達から呼び出される可能性があったからです。当時は勉強ができても不良(他校生と喧嘩をしたり、他の不良と決闘する人)の人も沢山いました。学校も社会も荒々しい時代でした。先生方もほとんど軍隊に行って帰ってきた人ばかりですた。もちろん体罰もありました。
 
 明確な格差社会でした。現在では考えられないほどです。おじさんが育ったのは企業城下町でしたが、ある企業では、職階によって社宅に大きな差がありました。部長社宅は社用車で家の中まで迎えにきました。(自動車を玄関に付けられるほど敷地が広いのです。)課長社宅では、乗り合わせて社用車で会社に行きました。係長社宅でも門があって、おまけに庭には池がありました。
 
 作業職の人の社宅は長屋のようなところです。それに社宅は全く別々だったので、住所を聞いただけその会社の親の職階が分かりました。中学校では朝補習に午後の補習がありました。もちろん教えるのは自校の先生です。補習費も払っていました。中学で就職する人は補習を受けずに帰っていました。(当時塾などありませんでした。)
 
 成績は1番~100番まで中学の正面玄関の前に筆で書いて貼り出されました。1学年600人近い数ですから、10番以内に入るのは大変でした。ですから、誰が学年1番か皆知っていました。おじさんの中学からは東大合格者はいませんでしたが、上位者は京大・阪大や地元の国立大学などに行きました。
 
 おおらかな時代でもありました。今なら大変なことでも町の人平気でした。中1の時担任の先生が「○○煙草を買ってきてくれ」(○○はおじさんの名前)と言ってお金をくれました。おじさんは「はい」と言ってうれしくなって、急いで校外の煙草屋さんに行きました。
 
 昼休みのことです。すると煙草屋のおばさんが「学生さんごくろうさん。○○先生ならこれだよね」と言って手渡してくれました。おじさんは急いで先生に持っていくと「おう すまんな。」といって喜んでくれました。50年前のことなのに昨日のことのように覚えています。
 
 古き良き時代のことです。明日はツマクマも帰ってきます。