新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

自己分析の難しさ

 今日は午前中は雨で午後も曇りでした。おまけに風もあって寒かったです。数日前からとうとう石油ストーブを出しました。昨日くらいからとうとう朝夕は入れています。
 
 今日は風も吹いて寒いし、いろいろあって、一日中家で過ごしました。本当は経済雑誌の新刊が出るので見に行くところなのですが。ブログを書くのもやめようかと思ったのですが、これは自分に課した仕事なので書いています。それでも今日は午前中、明日の授業の準備をしました。(組織神学概論)
 
 さていよいよ就職活動も最後の追い込みというところでしょう。おじさんが大学生だった時代は自己分析などということはしませんでした。そもそもおじさんは就職活動をしたことがないので当然です。就職活動をしていた当時の大学生も、売り手市場で自己分析どころか、より取り見取りだった思います。(経済系の学生さんは)
 
 ところでおじさんは、仕事をする前の自分と仕事を始めての自分との落差に驚いたことがあります。そもそも、大学入学前そして大学卒業まで、自分は教師以外になるなど一度も考えたことはありませんでした。学部選択でも、教育学部あるいは文学部、経済学部以外は考えたことはありませんでした。
 
 ところが大学に入ってみると、様々な学問に興味を持ちました。社会学・心理学・文化人類学・さらには哲学・倫理学までです。ただひとつ興味を持たなかったのが、法律学です。あんな面倒な条文の丸暗記なんて絶対にいやだと思いました。
 
 ところが、卒業して公立学校の教師となり、教育現場で事務職の人と一緒に仕事をするうちに行政学行政法に興味を持つようになりました。やってみると結構おもしろいし、なじみやすいのです。行政法を勉強に行った大学の先生からも向いていると言われました。(事務の人からはなぜ事務職にならないで教員になったのと言われました。)
 
 また、おじさんは子供の頃から引っ込み思案で、人をリードしたりするのは苦手でした。リーダーなどなったこともなかったのです。どちらかと言うと補佐役が向いていました。ところある時呉服展のアルバイトをしました。受付の仕事です。当時大学4年生でアルバイトの人の中で一番年長者でした。
 
 それで仕方なく仕事を割り振ったり、指示したりしました。また主催者の人との折衝などもしました。そのうち、皆からなんとなくリーダーのように扱われました。そして、ああ自分には意外の面があるのだと知りました。
 
 教師になって初めての学校は男子校に近い工業高校でした。文人のなかの文人であるおじさんが、ほぼ全員体育会系の工業高校の学生を相手にしました。他の先生も大丈夫だろうかと思ったでしょう。それなのに、意外ににも乗り越えることができました。
 
 工業の学生さんから、「先生案外根性があるね」と言われました。あざなは「根性○○丸」と呼ばれました。(○○はおじさんの名前)さらにある学校では学年主任になりました。10クラスですから、400人の生徒さんと、15人近い先生が学年に所属していました。会議の時に色々なことを言われたのですが、それもうまく調整できました。
 
 あらゆるところから「あんたの学年は○○で困る・何とかしてくれ。」(○○はクレームです。)としょっちゅう文句を言われましたが、何とか無事卒業させました。別の学校で進路指導主事をした時も、学校の進路実績が数としてでるので、もし去年より悪かったらどうしようと思いましたが、前年を上回る成績で無事勤めあげました。
 
 中国の大学に行った時も、1年持つだろうか(中国語は挨拶以外しゃべれない)と思いましが、3年間ここでも無事勤めあげることができました。大学生の頃の自分がこれまでの人生を想像できたかと言えば全く不可能だったと思います。
 
 もし、タイムマシンがあって、大学生である自分に、将来の人生を教えてやっても、きっと「ウソだろ」というと思います。あるいは「そんなことがあるはずはないと」いうでしょう。それほど現在の自分が本当の自分を分析するというのは難しいものです。自分も知らない自分というのがあるのだと分かりました。
 
 人生というのは、隠された自分を知る旅なのかもしれません。人生を生きているうちに意外な自分を知ることになるでしょう。
 
 明日は大学です。