新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

少年野球コーチの思い出

 今日は朝から曇り空です。明日あたりは雨になるとの予想も出ていました。ツマクマは昨日書いたように大学の同窓会でまだ帰ってきません。
 
 ところで予想通りと言ってよいのか、大阪ダブル選挙は維新の会の候補者が当選しました。大阪という風土、またマスコミの注目度(マスコミが注目した候補者の方が有利)、論点を単純化するなど、まるで小泉さんの「郵政選挙」そのものです。この時も無党派が一つの方向に流れて大勝しました。
 
 書きたいことはいろいろありますが、読者の中には様々な考えの方がおられるし、以前も書いたように、このブログは卒業生や知り合いの皆さんに無事を伝えるサイトでもあるので、まあ新知事・市長のお手並み拝見と行きます。
 
 株価もやっと値上がりしました。様々な記事を読むとアメリカ経済も少し持ち直しているようで、円高も70円を切るようなこともなさそうです。(ただ欧州の財政危機が悪化すれば別ですが)このまま持ち直してもらいたいものです。このまま年末まで上昇相場が続いてくれたらよいのですが。
 
 さて、数日前、ツマクマが以前少年野球のコーチをしていた時の積立金があるので、その時のメンバーで飲み会をしようと電話していました。そんなこともあったと思って、その思い出を書きます。
 
 今27歳になった息子が小学校4年生の時です。少年野球チームに入りたいと言いました。息子の通う小学校のクラブチームです。少年野球はメンバーをオープンで参加させるタイプと小学校に通う子供を対象としたものと二通りあります。
 
 おじさんの息子が参加したのは、小学校に通う子供を対象としたものです。そのため練習場は小学校のグランドであり、土日祝日長期休暇中が練習時間でした。5年生と6年生がAチームと呼ばれ、それ以下はBチームと呼ばれていました。
 
 指導者は子供の保護者です。父親はコーチと呼ばれて、指導を担当し、母親はマネージャーと呼ばれて、お世話をしました。おじさんは、全くの運動音痴(中学で半年バスケット部に入った以外全く運動経験なし)なので、いやだったのですが、子供が入るというのに反対はできませんでした。
 
 5年生になって、ツマクマから「あなたも来なさい」と言われて行きました。すると当時の監督から「○○さん、子供は親が来てもらうとうれしんですよ。野球がうまいか下手かは問題ではありません。自分の親だけ試合を見に来なかったらさびしいものです。」と言われました。(○○はおじさんの名前)
 
 それで決心して行きました。1回練習に参加しただけで、皆さんに運動音痴なのはすぐ分かってもらえました。それでも、玉拾いや外野守備をして貢献しました。よかったのは、他業種のお父さんたちと交流できたことです。おじさんは、学校以外の社会を知らないので、とても参考になりました。
 
 時には他のチームの方と一緒に仕事をしたりしました。民間の方はなかなか優秀だと思いました。自分で判断して次々に仕事をこなすし、それぞれ特技を持っています。6年生になった時はクラブの運営を担当しました。当時メンバーが少なくて父親は3人しかいませんでした。
 
 それで、監督と部長、マネージャーの3つを3人で分担しました。おじさんは部長です。部長は対外的なことや、文書を作ったりします。当時高校の庶務主任をしていたので、ぴったしでした。子供から「お父さんも部長になったね。」と言われました。といのは、義弟はもすぐ上の兄も一部上場企業の部長なのに、おじさんだけが平だったからです。
 
 異業種の人と、これまで接したことのない小学生と2年間毎土日過ごしたのはとても楽しかったです。民間の人がほとんどなので、練習が終わった後の夕方、校庭でビールを買ってきて飲んだりしました。(教師だと学校の中で・・たとえグランドでもお酒を飲むという発想はでないからびっくりしました。)人生の中で後にも先にも民間の人と一緒に仕事をしたたった1回の機会です。
 
 野球は上手になりませんでしたが、人生の思い出にはなりました。その後15年以上経過しますが、今でも土日は少年野球の練習する声が聞こえます。(小学校はおじさんの家から歩いて2分のところにあります。)
 
 明日から別荘に畑の手入れに行くのでブログはお休みです。(金曜日再開予定)