熱狂する群衆ー聖書に読む
中国でもクリスマスは盛んになっています。と言っても宗教性は余りありません。日本のクリスマスと同じで一種のお祭り騒ぎです。日本と違って面白いのは、中国人の大学生がクリスマスの日に「メリークリスマス」と挨拶することです。欧米なら分かるのですが、クリスチャンでもないのに「クリスマスおめでとう」はないだろうにと思います。
さて今日は熱狂する群衆について書きます。先日大阪でダブル選挙があって維新会系の候補者が圧倒的多数で当選しました。それまで無関心だった有権者も熱狂的な支持を与えました。これは民意ですからかまわないのですが、聖書の中でも多くの箇所で熱狂する群衆がでてきます。
先日も聖書でパウロが伝道している時ある街で扇動された大勢の群衆によって囲まれた事件について読みました。(使徒言行録・・以前は使徒行伝と言いました。)この時はその街の書記官が群衆を説得して解散させました。
原因はパウロの言説が自分達の仕事の邪魔になると考えた職人たちが扇動者の呼びかけで集まったのです。それでふと気になって群衆が熱狂する場面に共通するものはないか考えてみました。詳しい聖書箇所は煩雑なので省きます。
ところでこれらの群衆の熱狂に共通するものは何でしょうか。群衆が熱狂する背景には、不安があると思います。出エジプト記で言えば、指導者の不在です。群衆はこれからどうなるのだろうかと不安に思っているのです。そのような時に扇動者がでます。
扇動者の言うことを冷静に判断するより、不安を解消するためにその言葉に従うのです。とくにそれまで信じていたものが、急に失われたり、失望に変わったときにそうなります。
聖書では、ユダヤ人たちは「この結果の報いを自分達が引き受ける」(意訳)といいます。イエスが十字架にかかった時、「まことにこの人は神であった」と言ったのは、同胞のユダヤ人でなく、敵にあたるローマの百人隊長でした。外の人間の方が冷静に判断できるのかもしれません。
以前国民が熱狂したのに、戦前であれば太平洋戦争の開戦です。この時日本中の国民が熱狂しましたが、結果はご存じの通りです。最近では郵政選挙がありました。この時も閉塞感を持った国民が、小泉さんの演説に熱狂しました。しかし、すぐに裏切られた気持ちから、今度は民主党の政権交代選挙に熱狂しました。どちらも現状に対する不安や閉塞感がその根底にあります。
その論理から言えば大阪のダブル選挙も同様です。しかし、聖書を見る限り群衆の熱狂は所詮熱狂つまり理性的なものでなく、感性(感情)的なものです。冷静になった時、その反動がきます。物事は一時の熱狂ではなく、冷静で着実な歩みによってしか解決できないのです。
熱狂を導き出した指導者は残念ながら長続きはしないようです。最近の例で言えばオバマ大統領がいます。熱狂的な支持で登場したのに、すぐその熱は冷めてしまいます。
群衆は不満の不安、また閉塞感を持つ時に熱狂し、すぐにその熱は冷め、熱狂をもたらしたものを追放します。もし大阪のケースが持続するなら、新しいケースになるかもしれません。
明日はのんびりすごします。