新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

熱狂する群衆ー聖書に読む

 今日は久しぶりの晴天でした。ツマクマは着付けのお手伝いです。おじさんはいつもの通り教会へ行きました。教会はアドベント待降節)と言って主が来られるのを待ち望む時です。
 
 中国でもクリスマスは盛んになっています。と言っても宗教性は余りありません。日本のクリスマスと同じで一種のお祭り騒ぎです。日本と違って面白いのは、中国人の大学生がクリスマスの日に「メリークリスマス」と挨拶することです。欧米なら分かるのですが、クリスチャンでもないのに「クリスマスおめでとう」はないだろうにと思います。
 
 さて今日は熱狂する群衆について書きます。先日大阪でダブル選挙があって維新会系の候補者が圧倒的多数で当選しました。それまで無関心だった有権者も熱狂的な支持を与えました。これは民意ですからかまわないのですが、聖書の中でも多くの箇所で熱狂する群衆がでてきます。
 
 先日も聖書でパウロが伝道している時ある街で扇動された大勢の群衆によって囲まれた事件について読みました。(使徒言行録・・以前は使徒行伝と言いました。)この時はその街の書記官が群衆を説得して解散させました。
 
 原因はパウロの言説が自分達の仕事の邪魔になると考えた職人たちが扇動者の呼びかけで集まったのです。それでふと気になって群衆が熱狂する場面に共通するものはないか考えてみました。詳しい聖書箇所は煩雑なので省きます。
 
 旧約聖書で印象深いのは、出エジプト記です。モーセに率いられたユダヤ民族はエジプトを喜び勇んで出て行きます。ここまでは良く知られていますが、実はこの時エジプト人から様々な飾り物を奪ってさったようです。
 
 ところが、シナイ山に登ったモーセが帰った来ないので、不安になった人々は神との約束を忘れて、異教の偶像を作って礼拝し、熱狂するのです。
 
 また、イエスが伝道を始めた時も大勢の群衆が集まってきます。わずかなパンと魚で人々の飢えを満たした軌跡の話は有名です。さらには、イエスが過ぎ越しの祭の際エレサレムに入った時も群衆は歓呼して迎えます。
 
 しかし、イエスが捕えられ裁判にかけられると、群衆はイエスに代わって、当時人気のあった犯罪者(政治犯と言われていますが)バラバの釈放を叫びます。ローマの総督は、イエスに罪がないと分かっていたのにです。
 
 ところでこれらの群衆の熱狂に共通するものは何でしょうか。群衆が熱狂する背景には、不安があると思います。出エジプト記で言えば、指導者の不在です。群衆はこれからどうなるのだろうかと不安に思っているのです。そのような時に扇動者がでます。
 
 扇動者の言うことを冷静に判断するより、不安を解消するためにその言葉に従うのです。とくにそれまで信じていたものが、急に失われたり、失望に変わったときにそうなります。
 
 イエスの場合でも、イエスがローマの支配からの解放者と信じていたのに、そうでなかったことが分かった時点で、群衆は怒りを持って扇動者(この場合はユダヤ教の指導者)のいうことに従います。
 
 聖書では、ユダヤ人たちは「この結果の報いを自分達が引き受ける」(意訳)といいます。イエスが十字架にかかった時、「まことにこの人は神であった」と言ったのは、同胞のユダヤ人でなく、敵にあたるローマの百人隊長でした。外の人間の方が冷静に判断できるのかもしれません。
 
 以前国民が熱狂したのに、戦前であれば太平洋戦争の開戦です。この時日本中の国民が熱狂しましたが、結果はご存じの通りです。最近では郵政選挙がありました。この時も閉塞感を持った国民が、小泉さんの演説に熱狂しました。しかし、すぐに裏切られた気持ちから、今度は民主党政権交代選挙に熱狂しました。どちらも現状に対する不安や閉塞感がその根底にあります。
 
 その論理から言えば大阪のダブル選挙も同様です。しかし、聖書を見る限り群衆の熱狂は所詮熱狂つまり理性的なものでなく、感性(感情)的なものです。冷静になった時、その反動がきます。物事は一時の熱狂ではなく、冷静で着実な歩みによってしか解決できないのです。
 
 熱狂を導き出した指導者は残念ながら長続きはしないようです。最近の例で言えばオバマ大統領がいます。熱狂的な支持で登場したのに、すぐその熱は冷めてしまいます。
 
 群衆は不満の不安、また閉塞感を持つ時に熱狂し、すぐにその熱は冷め、熱狂をもたらしたものを追放します。もし大阪のケースが持続するなら、新しいケースになるかもしれません。
 
 明日はのんびりすごします。