新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖餐式余話

 今日は午前中は晴れていたのですが、これを書いている時は曇り空になりました。日曜日なので教会です。今日は壮年会がありました。今旧約聖書についての説明の本を読んでいます。おじさんは今日のテーマ発表にあたっていました。
 
 今日の箇所は創世記の部分です。神が世界を作られた話と人間を土から作られた話です。この部分を書いたイスラエルの人々はちょうどバビロン捕囚でバビロンにつれていかれていました。
 
 そんな中、祭司たちは、そもそもこの世界はどのようにして作られたのかという根源的な問題について考えたのです。ところで、旧約聖書の創世記や出エジプト記レビ記などの記述には当時の中東文化圏の影響が大きくあるようです。
 
 ですから、創世記の神話と呼ばれるような、バベルの塔の話やノアの洪水の話なども他の国にも同様の話があるようです。しかし、この前の旧約神学概論(名前は概論ですが、授業はゼミのようなものです。出席者は8人です。)では、先生が旧約聖書の戒律なども多くはエジプトその他の法典に出ているのと同じだというのです。
 
 ただ神(ヤハウェー)が命じたのだから守らねばならないと(他の法典は王様や神様の名前で出されるが、神自ら命じたのではない)神がその法の根拠になっていると言うのです。
 
 この旧約神学概論の授業では色々な話が出ます。今日はその授業で聖餐式について聞いた話を書きます。聖餐式は教会ではとても大事な儀式です。カソリックプロテスタントを問わず聖餐式があります。日本ではもちろん中国にいた時もちゃんとありました。
 
 聖餐式とはイエスキリストが十字架にかけられる前に行った最後の食事を記念して行われる儀式のことです。レオナルドダビンチの「最後の晩餐の絵」が特に有名です。そういえば中国で行っていた教会のロビーにも最後の晩餐の絵(模写)がかかっていました。
 
 具体的にはパンとブドウ酒を食するのです。日本キリスト教団ではこの聖餐式を行えるのは正教師(牧師になって何年か経験を積んでさらに試験を受けてなります。)と言って資格のある牧師だけです。ですから正教師でない牧師しかいない教会ではわざわざよそから正教師の資格のある牧師を呼んで聖餐式をするのです。
 
 聖餐のパンについては、おじさんの教会では食パンを切って使いますが、中国の教会では透明なせんべいのようなものでした。それからブドウ酒も以前は本当にブドウ酒でしたが、アルコール依存症の人やアルコールに弱い人もいるので、ブドウのジュースになりました。これは中国の教会でも一緒です。
 
 授業の時聖餐式のことが話題になり、様々の意見がありました。ある方は、ある教会に行ったら。ブドウ酒にするかジュースにするか選択できたと言っていました。ちなみにこの聖餐に加わることができるのは、洗礼を受けた人だけです。中国でもそうで、洗礼を受けた人だけが起立して加わっていました。もちろんおじさんたちも堂々と加わりました。
 
 最近教会によっては誰でも教会に来た人を聖餐に加えているようです。しかし、この聖餐式はキリストとの契約なので(パンは肉の象徴で、ブドウ酒は血の象徴)キリストを信じると告白していない人が加わるのはおかしい気がします。
 
 お店でもある契約(つまり買って代金をはらって契約が成立)を結んだ人だけが参加できるのに、将来契約に参加するかもしれないとか、折角いるのだからと言って契約をまだ結んでいないのに、式に参加させるのはおかしいと思います。
 
 前回の授業で盛り上がったのは、聖餐式で残ったパンとブドウ酒をどうするかです。これは聖餐式に対する考え方の問題でもあります。おじさんの教会では、役員(長老)と牧師で残りを食べます。ある教会では土に穴を掘って埋めるそうです。
 
 カソリックなどは神父さんが残りのブドウ酒などを全部一人で飲んでしまうと聞きました。また先生の話では、エルサレムの教会に行った時、大きな器にブドウ酒が入っていて、それを回し飲みする決まりだったそうです。ちょっと引けたけれど今さらやめられないので、そのまま飲んだそうです。
 
 そういえば戦国時代の茶会でも大きな器に茶をいれて回し飲みしたという話を聞いたことがあります。一番皆で驚いたのは、ある教会では残りのパンやブドウのジュースを教会に来ている子供にやったり、犬に食べさせたりするのだそうです。
 
 本当に日本でも様々な教会があるものだと思いました。教団以外の教会から来た人がほとんどなので、教団では考えられない教会の話が聞けます。今日は純教会ネタで申し訳ありません。
 
 明日は月末近くなので又銀行まわりです。