新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「たけしの教科書に載らない日本人の謎」-国語史余話

 今日は一日曇り空です。午前中はとうとう大学のレポートを完成させました。レポートは二つあるのですが、今回完成させたのは、12日提出予定の組織神学に関するレポートです。2000字~4000字となっていたのです。専門外でもあるし、難解な内容であったので、2000字も書けるだろうかと思ったのですが、書いているうちに色々思い付いて結局3500字くらいになってしまいました。
 
 内容についてブログに書いても読者の皆さんには興味がないでしょうからテーマだけ書いておきます。「『律法から福音』なのか『福音から律法』なのか」です。どちらでもよさそうですが、そうはいかないことを立証するのがレポートの内容なのです。(それはもちろんおじさんの意見ではなく20世紀最大の神学者バルトの意見なのです。)
 
 午後からは水道修理の業者の方が来たり、4月から働く予定の学校の主任の先生からの電話などがある予定なのですが、まだないのでこれを書いています。それから日本のある大学院に来られている、中国の先生(おじさんが勤務した大学とは別)から面接の内容に関する質問があったので、そちらの方も回答しておきました。
 
 中国を離れても、中国時代の知り合いの先生や学生さんからいろいろ質問やメールがきます。日本の学校だと離任するとそんなことはほとんどありませんでした。中国の学生さんが「先生は一生先生なのです。」と言った言葉が本当だと知りました。
 
 さて、昨日テレビをみているとおもしろい番組がありました。「たけしの教科書に載らない日本人の謎」です。これは実は専門的に言えば国語史(日本語の歴史)の授業で勉強することなのです。テレビの番組ですから、専門的な内容は割愛して事実だけを述べていました。
 
 たとえば奈良時代の日本人と現代人が会話できかと言ったことです。テレビでもやっていましたが、会話は不可能です。これは国語史をちょと勉強すればすぐ分かることです。当時の音と現代の音とは全く異なっているからです。「きひみけへめこそとのもよろ」この呪文のような言葉について2種類の発音があったことが知られています。(専門的には甲類と乙類と呼んでいます。例えば甲類のき、乙類のき のようにです。)
 
 発見したのは江戸時代の石塚龍麿で「仮名遣奥山路」でその事実を明らかにしました。(本の名前は「かなづかいおくのやまみち」と読みます。)ただ当時は何を言っているのか全く理解できなかったそうです。それを明治になって、東大教授の橋本進吉博士が再発見します。と言っても、明治になっても橋本進吉氏以外この事実を理解できなかったそうです。大正期になってやっと理解できるようになりました。(現在では研究が進んでいます。)
 
 橋本進吉氏は近代日本最大の国語学者です。ちなみに学校で勉強する、文法体系は彼が考えたものです。ですから、明治以降現代にいたるまで勉強した文法一覧表は彼の考えによるものなのです。現在の人口は1億2千万人ですから、小学校に6年間通った人つまり1億1千9百9十万人以上が彼の学説を勉強したことになります。
 
 ちなみに、橋本進吉氏の文法を「橋本文法」と呼びます。他に「松下文法」とか「時枝文法」などがあります。よほどの国語学史の専門家でなければ、橋本文法以外の文法学説については知らないとおもいます。(おじさんも詳しくは知りません。)
 
 ところでその二つの音については「上代特殊仮名遣」と呼ばれています。これに関する本も持っていたのですが、中国の大学の資料室に全て寄贈しました。(何年かのちに資料室に行った人は驚くと思います。)また、当時の「は」行音が「ぱ」行音であったことも明治になって知られました。当時東大の教授であった上田万年(うえだかずとし)が発見したものです。「P音考」という論文になっています。
 
 じつは「P音考」について説明しなさいという問題がある国立大学の大学院入試問題に出ていました。おじさんの大学の卒業生が受験するというので、問題を借りて解いていたらでていました。懐かしかったです。国文科出身でも夏目漱石の研究などやっていたら全く解けない問題です。
 
 ちなみに現在の「ハ」行音は上代奈良時代)は「パ」となり、戦国時代には「ファ」となります。これは戦国時代日本に来たキリシタンの残した書物に証拠が残っているのです。実は彼らは日本語学習のためのテキストとして、ローマ字で日本語を記録したのです。
 
 一番よく知られているのが「天草本伊曾保物語」です。これはローマ字で書かれたイソップ物語なのです。そこでは「母」は「fafa」と表記されています。「haha」ではないのです。ちなみに上代に「は」が「ぱ」出会った証拠として「父には会わなかったが母にあったものは何か」というなぞなぞがあります。
 
 答えは「唇」です。発音していただければ分かるのですが、「ちち」では唇はくっつきません。「はは」でも同様です。しかし、「ぱぱ」とすると唇がくっつくのです。これは大学の時先生から講義の時聞いたことです。とても感心しました。
 
 まだまだ国語史(国語の歴史)を勉強するとおもしろいことが分かります。余り長く書くと退屈するのでこれでやめます。ただ言語(この場合日本語)も文化の一部です。文化は社会の影響を強く受けます。もし、戦国時代末期に関ヶ原の合戦で徳川方が敗れたら、現在の日本語は全く別のものになったでしょう。
 
 多分関西方言が共通語(標準語と言ってもいいです。)となったと思います。言語の場合、上流の人がしゃべる言葉を下層の人もまねをしますので、京都方言あたりが標準語となり、若者は大阪方言を話し、関東の東京方言は田舎のことばとして蔑視されたでしょう。(徒然草では「関東の言葉はなまっている」というような文章がでてきます。)
 
 日本語のルーツをめぐる議論もおもしろいですが、日本語の変遷をたどるのもおもしろいです。(もちろん興味があればの話です。)明日はのんびり過ごします。