新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

過ぎにし日々ー誕生日に思う。-

 今日は暖かくなると聞いたのですが、意外と寒いです。午前中はツマクマの通院のお手伝いと、買い物(道の駅風の販売所)のお手伝いです。午後からは曇ってきました。明日は天気だと聞いたので期待しています。暖かくならないと暖房費が馬鹿にならないのです。
 
 さて今日はおじさんの誕生日です。64歳になりました。昭和23年の生まれです。昭和23年と言えば、戦争が終わって3年目、やっと少し復興が進んでいた頃です。当然日本はアメリカ軍の占領下にありました。おじさんの住んでいた街の隣町に米軍の基地がありました。(国道の名称もジープ道路と呼ばれていました。国鉄の駅で貨車に積まれた米軍の戦車を見たこともあります。)
 
 結構大きな基地でした。それに少し離れた街には米軍の空軍基地(当時はベースと呼んでいました。)もあり、射爆場(飛行機が射撃や爆撃訓練をするところ)があって、貧しい日本人がこっそりその中に入り込んで薬きょう(真鍮でできていて高く売れたそうです。)を拾っていたそうです。
 
 おじさんは、これまでのメルクマール(転換点)となった歳を考えてみました。まず5歳です。これは現在に続く学校生活(生徒と教師)の始まりです。(59年間断絶することもなく学校で生活しています。)5歳で幼稚園に入りました。学歴は幼稚園から大学院まで行きました。残念ながら、日本の最後の学歴の大学院博士課程だけ行っていません。ここまで行けば全ての課程を修了したことになるのですが。)
 
 小学校・中学校・高校まではなんだかきめられたレールを走っていたような気がします。人生の第一の選択は18歳の大学の学部選択です。経済学部と文学部に合格しました。もし経済学部に行っていたら多分人生は変わっていたと思います。(おじさんは流通関係に興味があったので、スーパーかデパートで働いていたでしょう。)
 
 次は22歳大学卒業時です。中学(教師)・高校(教師)・大学院(進学)の3つの道がありましたが、真ん中の高校にしました。今考えてみてもそれで良かったと思います。大学院は東京だったので、昔風に言えば花のお江戸で2年間過ごしてもよかったかと思います。
 
 ただ国語・国文学の研究者になる能力があったかどうか今でも自信がありません。大学院に行っていたら、関東ないし東日本の人になっていたかもしれません。高校教師も最初の5年間は関西地方の高校で過ごしました。同じ西日本でもおじさんの住んでいた地方とは文化が全く違います。
 
 関西地方はやはり合理主義あるいは本音主義だと思いました。おじさんの住んでいた地方はどちらかと意気に感じるなら不合理あるいは不利なことでもやる文化だからです。(男意気とか男気が好きな文化です。)関西地方の高校教師になったのは、おじさんの県で採用がほとんどなかったからです。
 
 それが27歳の5年後様々な理由(一番大きかったのは定年制・・何とおじさんが就職する数年前まで勧奨退職はあっても定年制度がなかったのです。)で教師の退職が増えて、現職教員採用試験があったからです。これは試験科目も教職教養が不要で、本来1次試験合格者のみにある面接試験も、筆記試験(1次試験のこと)終了後すぐにやってもらえました。
 
 おまけに、待遇は現在の県での待遇をスライドさせてくれて、最初からその県で採用されたのと全く同じ待遇との条件でした。おじさんが最初いた県は故郷の県より都会なので、給与も高かったのですが、そちらに合わせてくれました。他の先生から、なぜあなたはこんなに給与が高いのかと言われたこともあります。
 
 その後の生活は平凡です。淡々と教師生活をおくりました。ちなみに24歳での結婚は同じ町出身のツマクマと関西地方で教師をしている時結婚しました。(ツマクマは保育士として働きました。)後は子供たちが3人生まれ、家を建て、子供たち2人は結婚し、孫も生まれるという生活です。
 
 そうして60歳で定年。普通であればこれで後は余生となるところですが、その後3年間の中国生活となりました。この3年間以外の人生は驚きもなく、計画していた通りでした。しかし、中国の大学での3年間は全く予想外のことです。人間定年過ぎても驚きの人生があるものなのです。
 
 4月からは又全く新しい経験をします。おじさんは学生さんから「先生は生きることを楽しんでいるようです。」と言われたことがあります。人生は楽しもうと思ってできることではありません。おじさんは本当に運が良かったのだと思います。ほとんどの人は自分が考えたり願ったりしたのとは違う人生を送るものだからです。
 
 男性の平均寿命を80歳とすると、残り14年です。取りあえず、70歳くらいまでは仕事があればやりたいと思っています。70歳を過ぎると流石に仕事もできないでしょうから、それから何かすることを考えます。
 
 明日は教会へ行きます。