新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

信仰と祈り

 今日は暖かくなると聞いたのですが、結局曇り空から小雨になりました。寒さも相変わらずです。今日は姪に子供ができたので、見に行きました。そちらは私の兄の子供で、3人目です。
 
 さて今日は日曜日なので、宗教について書きます。読者の方によっては、宗教はどうもという方もおられるので、興味のない方は、読まれなくて結構です。おじさんはいつも政治や経済ばかり考えているわけではないのです。日曜日や夜寝る前にはちゃんとお祈りをしています。(不謹慎なことに祈りながら寝てしまうことがあります。)
 
 以前書いたようにおじさんが信仰を持って今年で45年になります。きっかけは人生の目的に迷っていた時、キリスト教に出会ってその教えを受け入れることになったのです。キリスト教は仏教と違って家の宗教ではありません。個人が志願して洗礼を受けてなるものです。
 
 ですから、おじさんとツマクマはキリスト教ですが、子供たちは洗礼を受けていません。カソリックの場合は、幼児洗礼と言って生まれた時に受けさせるのです。信者さんの数を確保するためにはそちらの方がいいと思うのですが、プロテスタントはそのようなことはありません。
 
 信仰を持ってどこが一番違うかと言えば、祈ることができる点です。キリスト教以外の宗教でもお祈りをすると思います。神社に行っても、お寺に行ってもお祈りをします。また人によっては太陽を拝む人もいます。もちろん家内安全や家族の無事を祈ったり、合格祈願などでしょう。
 
 友人や知り合いで困っている人のためや、世界平和について祈る人はそう多くないと思います。キリスト教ではそのような祈りもあります。祈りに二種類あって、一つは公同の祈りと個人の祈りです。公同というのは、皆で祈ったり、個人ではなく全体のために祈るものです。
 
 前者は「主の祈り」が良く知られています。この祈りは世界中の教会でなされます。もちろん中国にいた時も中国の教会でも中国語でやりました。この祈りはキリスト自身が祈る時はこのように祈りなさいと教えたものです。もう一つは祈りではありませんが、キリスト教の信仰を表したものに、「使徒信条」というのがあります。
 
 これは自分の信仰を表したものです。日本語では「我は~信ず。」の形の表現をとります。もちろんこれも世界中のプロテスタント教会カソリックは知らないので)で唱えられます。中国の教会でも当然唱えます。中国語では「我信~」となります。また、献金のお祈りや礼拝のお祈りなども公同の祈りです。
 
 個人の祈りは当然個人が祈るものです。おじさんの場合は、何を祈るかはその時によって違います。大きく分けると、家族のこと、教会のこと、知人や教え子のこととなります。(時として日本のことも祈ります。)ある時牧師さんから祈りは具体的に祈りなさいと言われたので、できるだけ具体的に祈るようにしています。
 
 仕事を探している知人なら、仕事がみつかるように、受験する教え子には合格するようになどです。祈りがかなえられた時は祈るのはおしまいです。(もちろん感謝の祈りをします。)それでは肝心の祈りは答えられるのか、ということですが、もし祈ったのに全く応えられなかったら、2000年間もキリスト教が続くはずはありません。
 
 ただおじさんが言いたいのは、祈りはそのまま応えられるわけではないということです。こちらが予想したのとは全く違った形で応えられるということです。それに時間差があります。もう祈りは応えられないとこちらが思って諦めていると、全く別の形で応えられます。(長い期間だと10年以上経過してということもあります。)
 
 おじさんは昨日書いたように、大学院に行かなかったので、後に行きたくなりました。教師時代も教育委員会で大学院への派遣の募集があったので、何度か応募しましたが駄目でした。何とか行けるように祈ったのですが、応えられませんでした。それなのに、諦めて20年くらい経過して偶然のきっかけで行くことになりました。
 
 その後大学の教師になりたいと祈ったのに応えられませんでした。それが定年後突然中国で大学教師をすることになりました。4月からの仕事も全く想像もしなかったことです。もし、お金が儲かるようにと祈ったらどうでしょう。おじさんも、子供が2人大学等へ進学して苦しかった時祈ったら、全く別の形で収入を得ることができました。
 
 信仰は見えないものが見えるようになることです。当たり前のことが、そうでないことが分かることです。目の前に起こったことが、偶然や運が良かったと思うのか、これは神が自分のために備えてくれたと思うかです。
 
 神様は自分に良いことばかりでなく、試練を与えられます。それを運が悪かったとするのか、又はなぜ自分だけがこんな目に会うのかと考えるのか、この試練にもきっと意味があるのだと考えるかです。おじさんも4月から新しい場で生きることになります。そこできっと試練が待っていると思いますが、同時に何か意味或いは使命があって遣わされる(自分を必要とすることがある)と考えています。
 
 そう思うといつも何か刺激があっておもしろいです。明日は月が変わったので銀行にチェックに行きます。