新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

宗教における絶対的価値と相対的価値ーキリスト教の場合

 今日も冬とは思えない暖かい1日です。こんな日が続いてもらうと有難いのですが。年金生活者としては暖房費もばかにならないのです。金曜日から来ていた次女と孫は帰りました。
 
 今日は日曜日なので教会です。日曜日に教会へ行くのは40年近い生活のリズムなので特別気にはなりません。そんなリズムのない方は、日曜日に教会へいくなどせっかくの休日なのにもったいないと思われるでしょうね。
 
 さて、今日は日曜日なのでキリスト教の価値感について書こうと思います。やや神学的な内容なので興味がないと思ったらすぐに読むのをやめてもらって結構です。ところで今教会の説教は使徒言行録の説教です。以前書いたように、これは講解説教と呼ばれるもので、1年近くかかってある聖書箇所を読み解き、説教するのです。
 
 使徒言行録は部分的には知っていたのですが、全体を読みとおしてみると、まるで映画かテレビドラマを見ているようです。もちろん、この内容をドラマにしても十分成り立つと思います。この2月くらいはどきどきするような裁判の部分です。
 
 登場人物は主人公のパウロの他に、裁判長であるローマの総督、ユダヤ人の大司教ユダヤの王、弁護士、陪審、部下のローマ軍の隊長などです。今はパレスチナでの裁判からローマの皇帝の法廷へと移っていくところです。この後、パウロの乗った船の難破などドラマチックな場面があります。
 
 ところで今日はこの世の価値と聖書の教える価値の違いについて書きます。聖書と言えばイエス様のありがたい言葉が連ねられていると思われがちですが、実はおもしろい譬え話も多いのです。(イエスの譬え話は当時の生活を元にして語られます。)その中にある種の価値感がうかがえるのです。
 
 まず一つはブドウ園の労働者の話です。(マタイ福音書20章)あるブドウ園では収穫のため人手が必要となりました。そこで夜明けから労働者を探して雇って働いてもらいました。それでも不足しているので、朝9時頃何もしないで広場に立っている人々がいたので、彼らも雇いました。12時頃と午後3時ころにも同じように雇いました。っ午後5時頃にも行ってみるとほかの人が立っていて、仕事がないと言うので彼らも雇ってきました。
 
 さて夕方になって労働者たちを呼んで最後に来たものから始めて、最初に来た者まで順に賃銀を払うよう監督に命じました。最初に来た者には1デナリ(1万円くらい)の賃銀を約束していました。5時頃雇われて1時間しか働かなかった者は1デナリもらいました。
 
 ところで最初から来て長い間働いた者はいくら貰えたでしょうか。1時間しか働かなかった者が1デナリもらったのですから、8時間働いた者は8デナリ貰えたのでしょうか。実はそうではないのです。1時間しか働かなかったものも、8時間あるいはそれ以上働いた者も同じ賃銀でした。
 
 当然、夜明けから働いた者は文句を言いました。主人の答えは「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。」
 
 普通の社会では、多く働いたものが多く収入を得る、これが当然です。しかし、聖書特にイエスの言葉では、信仰の世界では相対的(比較できるもの)でなくて、絶対的なものが全てだと言っているのです。前述の譬えは神の国(天国と言ってもよいと思います。)とはどんなところなのかの比喩として語られています。
 
 もちろん、納得できないと思う方もあると思います。それはそれで良いのです。キリスト教特にプロテスタントではカソリックのような聖人とか修道院のような自ら普通の人には真似のできないすばらしい行動をする人をたたえることはありません。
 
 この譬え話からは、信仰の質や量は比較できないと言っているように思えます。長く信じている人も少しの時間だけ信じた者も信仰をもったという点では同じだと言っているのです。信仰した時間の長さは関係ないと言っているようです。もう一つの聖書箇所も極めて印象的です。それはイエスキリストが十字架にかかった時のことです。その左右に別の罪人も十字架にかけられていました。その二人の言動が極めて象徴的なのです。(ルカ福音書23章39節以下)
 
 ある罪人はイエスをののしって言いました。「お前はメシア・・救世主ではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」うんこれは納得できる言葉です。ところがもう一人の罪人は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない。」と言いました。そして「イエスよ。あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください。」
 
 何だか芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のような展開ですが、イエスは何と答えたでしょうか。いまさらそんなことを言っても遅い。それなら、なぜもっと前に罪を改めなかったのか。あるいは、自由に活動できた頃なら別だが十字架にかかった私に今頃そんなことを言っても無理だ。あるいは、良いことをしてきたなら、天国へいけるが、散々悪いことをしてきたのだから、無理だと言ったのでしょうか。
 
 答えは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」です。sれなら、今までまじめにやってきた者はどうなのだという意見もあるでしょう。ここまで来ると少し仏教を学んだ方ならお分かりになると思いますが、嘆異抄の「悪人正機説」(善人なをもて往生をとぐ。悪人においてをや。善人でさえ往生する。ました悪人においてはなおさらである。)にも通じるところがあるのです。時代や社会は全く違いますが、実は親鸞の教えはプロテスタントの教えに近いのです。
 
 今でも仏教のある派やカソリックでは妻帯が許されません。ところが親鸞は自ら妻帯しました。プロテスタントの牧師さんも妻帯しています。ここも似ています。
 
 イエスキリストの言葉にも、元気な人に医者はいらない、罪人(つみびと・・この場合の罪は法的なものではありません。)にこそ、自分は必要なのだと言っています。現代の競争社会は他との比較つまり相対的価値の時代です。そんな時代にこそ宗教の持つ絶対的価値(誰でも救われることができる。救われる資格は、ただ信じればよい。)が必要だと思います。
 
 ちなみに絶対的価値の例としては友情や親子の情愛などがあります。つまり量的かつ質的な比較ができないものです。自分達の友情は君たちの友情より優れているなどと言ったらばかにされるだけでしょう。また自分達親子の情愛はあなたたち親子の情愛より深いなどということもできません。
 
 友情や情愛を数値化すると言ったら変人扱いされるでしょう。それは友情や情愛は絶対的価値だからなのです。又難しい話しを書いて申し訳ありません。誰も聞いてくれないので、ひとりごとを言っているのだと思って許してください。
 
 明日はのんびり過ごします。