新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

大阪市の小中学生留年提案についてー教育の本質

 今日は朝から晴れています。夜からは雨になるとの予報です。今日は義母のために介護保険から手すり取り付け工事の認可がでました。これは、ある範囲で介護保険から工事費が出るのです。個人負担は総額の1割になるのです。今回は予算20万円なので、個人負担は2万円ということになります。
 
 入り口の階段やふろ場の手すりなどを取りつけます。義母も90歳になるので、よかったと思います。昨日に続いて株価は上昇し、おまけにユーロも相当円安に振れています。このまま対ドル・対ユーロが円安傾向になれば、輸出産業も一息つけると思います。
 
 ところで、株式市況ですが、政治銘柄と言われる銘柄が動き出しました。ある地方百貨店なのですが、昔からこの銘柄は政治関連株と言われています。選挙資金を稼ぎだすために動かすと言われています。というのは、地方都市で人口も減少傾向にあるのに、突然出来高上位に名前をだすのです。
 
 突然業績が良くなるような企業ではないのです。おじさんも注意していますが、大体この株が動き出す時は、解散総選挙の可能性があるのです。今すぐという訳ではないのでしょうが、早くて6月遅くとも9月の自民・民主の代表選挙前に総選挙の動きがあると考えている人がいるようです。
 
 さて今日は数日前に報道された大阪市の小中学生の留年提案について書きます。もちろんおじさんは反対です。簡単に言えば百害あって一利なしです。害は100どころか、無限と言ってよいでしょう。なぜ今橋下市長が提案するのか分かりませんが、十分練られた提案でないことは確かです。
 
 報道によれば、ある教育評論家の意見から思い付いたとありました。昨日の朝日新聞では、その評論家の話として、橋下市長が言っているのは、自分が言っていることと全く逆であると報道されていました。およそ、教育者として教壇に立った経験のあるものなら、小中学生に留年させるなど思いもつかないでしょう。
 
 橋下市長が提案したのは、小中学生でもその学年で習得すべき能力が十分身についていなければ、もう1年やってもらうという極めて単純なものです。教育問題は他の政治問題と違って、全員が教育を経験しているので発言しやすいです。
 
 しかし、学生、生徒として受けた教育と、教師として教育に携わるのとでは全く視点が違うのです。外から見るとなぜだろうと思うことでも、内側から見ると全く別の視点があるのです。
 
 一番大きな問題点は、そもそも教育とは何かということです。教育という文字を見て頂ければわかるように、「教」と「育」から成り立っています。つまり教育には「知識・技能の習得」(教)と「人間としての成長・育成」(育)の二つの面があるのです。
 
 塾と学校の最大の違いは塾は「教」の部分のみを担当し、学校はその両方を担当していることです。塾に人間性の育成を期待する保護者は少ないでしょう。そんなことより、高校や大学に合格する学力を身につけてほしいと思うはずです。(専門学校も基本的に同様です。)
 
 留年制度の問題点の最大のポイントはその「育」の部分にあります。高校生レベルでは、すでに人間性の育成は終わっています。ないとは言いませんが、高校生くらいになって今さら人間性の育成などと言ってもそんなに効果はないでしょう。逆に生徒も教師も父兄も進学なり就職のための知識や技能を身につけてほしいと願うはずです。知識が重要と言っても三角関数や化学式の計算ができなくても人生に大きな影響はないはずです。(理系は別)
 
 逆に小学生や中学生の時代では、知識・技能はたいしたレベルではありません。小学生の算数で言えば、分数計算や文章題(旅人算鶴亀算など)あるいは面積や体積の計算などでつまずく子供はいるでしょう。おじさんの経験でも、小学生の場合、一番差がでるのが算数なのです。
 
 中学では英語・数学・理科などで差がでます。ところで、読者の皆さんでも中学の時数学がさっぱりだったという方もおられるでしょう。しかし、世の中にでてだからとても困ったということは少ないと思います。逆に算数や理科が出来ないからと言って留年させられたとしたらどうでしょう。
 
 小学校というのは地域ごとに作られています。ですから留年した子供のことは学校だけでなく、地域中に知れ渡るでしょう。そんな中で子供はどう育つでしょう。よしがんばるぞと思うくらいなら、留年したりしないでしょう。小学生レベルで留年するというのは何か理由があるはずです。
 
 そのように書けば、読者の皆さんの中には、その子が怠けていたから当然の報いだと思われる方もいるでしょう。もし、自分の子供が留年しそうだと分かれば家庭教師をつけるなり、塾に行かせるなら、親が勉強を教えたりするはずです。中学生なら間違いなく塾へやるでしょう。
 
 子供を塾にやった経験から言えば、塾は定期考査にどんな問題がでるか知っているのです。読者の皆さんにお教えすると、実は教科書には付録として標準問題というのがついているのです。ほとんどの学校はその教科書付属の標準問題を使って定期考査の問題を作るのです。
 
 けしからん、自分で作ればよいのにと思われるかもしれませんが、国語のような答えが一定しない教科の場合、教えた先生によって授業内容や説明が異なるのです。たとえばある詩を教材にして授業した時、全ての先生が同じ解釈などできないと思います。(それなら国語でなく数学です。)
 
 だからある部分は共通問題として教科書付属の標準問題を使うのです。ところが教科書は市内全部同じなので、先に試験があった中学の生徒から何が出たのか聞けば、同じ単元をやっている別の中学でまだ試験をやっていない場合、事前に問題が分かる仕組みなのです。
 
 何が言いたいかと言えば、塾に行けば点数不足になって留年することはないということです。小学校なら親が教えてやるか家庭教師をつければ何とかなるということです。それでも留年の対象になるのは、家庭が苦しくて塾にやれない子供か、能力が特別支援学校へ入るかどうかのボーダーの子供だけということになります。
 
 これだけ児童虐待数が多い中、留年の対象になるのはそのような家庭の子供か能力がボーダーの子供かもう一つは精神的な問題で不登校になっている子供だけだということです。また、教師の側からすれば、小学校の場合全教科一人の先生が教えるのですから、留年するような生徒を出すということは同時の教師の教科の指導力に問題があったということになります。多忙な教師には、放課後留年しそうな生徒のために補習を行う時間はないでしょう。
 
 生徒を留年させれば、その生徒を一生傷つくでしょう。同年齢の子供は修学旅行に行っても自分は行けません。もし年子(1歳違い)なら、自分の弟と同じ学年です。学年の生徒も先生も全員その子が留年したことを知っています。昔以上に同質性(皆同じ)が求められる時代に、一人あるいは数人の留年した小学生が立派に育つなど考えられません。(おじさんの経験で言えばほとんど全員不登校になると思います。)
 
 高校でも極力留年は避けます。高校で留年させるのは授業時数が不足した場合だけです。これはどうしても救うことができないからです。ですから、留年が教務規定に制度として書かれている高校でも留年はめったにでないのです。そうなれば、橋下市長が提案しても留年生はでないと思います。
 
 そこで予想されるのが、職員条例同様の規定です。各学校で必ずある割合で留年生を出せということになるでしょう。職員条例でも最低評価を必ず出すようになっています。理由は昨日書いたとおり、罰を与えなければきちんと守らないという考えです。
 
 そんな規定が全国に広がったら大変だと思います。義務制は市町村教育委員会ごとの規定なので、留年規定のある市町村からない市町村へ転出することも考えられます。大阪の場合でも、他市で留年規定がない場合、留年しそうだと思ったら転出すればよいのです。
 
 進級したのち又戻ることもできます。おじさんが、一番腹立たしく思うのは、留年させられた子供は誰を恨むでしょうか。そのような留年制度を作った市長でなく、自分を留年させた教師を一生恨むでしょう。市長は任期が終われば全て忘れて別の仕事(たとえば首相でもいいです。)につくでしょう。
 
 しかし、教師は自分が留年させて生徒のことを一生気にかけると思います。教育の仕事を首長に任せろ、教師や教育関係者は信用できないという考えもあります。しかし、首長は任期中だけの仕事です。それに選挙で負ければ、自分はやりたいと思ってもできないのです。規定だけ残された現場はたまったものではありません。
 
 人間の一生に責任のある教育現場はやはり政治の世界から切り離すべきだと思います。明日はのんびり過ごします。