新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

無縁社会をキリスト教から考える

 今日は朝から曇り空でした。気温もやや低めです。今日は教会が終わった後、近くのデパートで全国うまいもの市があったので、出かけました。そのデパートは余り大きなものではないので、全国うまいもの市と言ってもそんなに出店していませんでした。
 
 それでも、山形や北海道の名産品を買いました。ついでに、セーターなども買って帰りました。久しぶりの買い物です。中国にいた時は、デパートが歩いて20分くらいのところに3つもあったので、日曜日などよく出かけました。
 
 日本の地方都市同様、おじさんの街もさびれています。デパートも他の地方都市同様JRの駅前なのです。また駅前商店街もさびれています。シャッター街になっています。少子化がさらに進むと思われるので、将来街が賑やかになる見込みはありませんね。
 
 さて、今日は最近話題になっている無縁社会についてキリスト教の視点から考えてみたいと思います。無縁社会がどのようなものであるかは、様々な定義があるでしょう。ここでは主として、無縁仏を中心に書いてみたいと思います。
 
 仏教が中心の日本では、一番問題になるのは死後のことです。生きている間はたとえ知り合いがなくても経済さえ足りているなら、何とかなります。しかし、死後はそうはいきません。もし、家族と無縁ならお葬式をしてくれる人がいません。さらには、どこに葬られるかさえ決まりません。
 
 もちろん、行政が最低限度のことはしてくれるかもしれません。しかし、その後供養してくれる人もなく忘れられていくのです。日本は祖先崇拝の国なので、死後弔う人がいないと言うのも虚しいです。
 
 ところで、キリスト教の場合どうでしょうか。まず、キリスト教は家族単位の信仰ではなく、個人単位の信仰ということがあります。特に日本の場合、夫婦でも信仰が別な場合が多いです。おじさんの家でも夫婦はキリスト教ですが、子供たちは違います。
 
 キリスト教の場合、どこかの教会に所属していればその所属教会でお葬式をします。ですから、自分が死んだ後誰がどこで葬式を出してくれるか悩む必要はありません。教会の牧師さんが、葬式の司式をしてくれます。お葬式の準備は葬儀社と教会員がやってくれます。
 
 教会員の場合、お墓は教会のお墓に入ります。教会には教会付属の墓地があります。(大きな霊園の中にあって、半地下式の納骨堂です。)おじさんの教会の場合、教会員の納骨は無料です。もちろん、お葬式も教会に関しては無料です。(葬儀社の分は自己負担だと思います。)牧師さんへのお礼も基本的には無料です。(お葬式は牧師さんの本来的な仕事なのです。)
 
 キリスト教では、死とは神によって天に召されたと考えます。人は使命を持ってこの世に遣わされ、その使命が終わって神様によって天に召し戻されると考えるのです。キリスト教にはお盆のように死者の魂が戻ってくることはありません。
 
 キリスト教では、輪廻のような生まれ変わりの思想もありません。死者は最後の審判の後生き返るとされています。いわゆる復活信仰です。復活信仰というとキリスト教の専売特許のようですが、聖書を読むとイエスの時代のユダヤ教にも復活信仰があったことが知られています。おじさんに向かって「あなたは、死者の復活を信じていますか。」という人もいますが、答えはよく分からないということです。
 
 仏教でお葬式する人に、「本当に極楽往生を信じていますか」と聞くのと同じようなものです。キリスト教の場合、教会が続く限り教会員が墓前礼拝をおこないます。ほとんどの教会では、復活祭の時に教会墓地の前で礼拝をし、墓地にねむっている人達を忍びます。おじさんの教会の場合、死者の名前を墓地の壁面に刻みます。
 
 それでは、何十年も経過して墓地の納骨ができなくなるほど一杯になったら、墓地の一角にある筒から地に返します。聖書では人はチリから生まれたとあります。ですからチリはチリに、つまりもとの土に帰るのです。おじさんも、何十年か後に地にかえるのです。
 
 普通の納骨堂のように隣に納骨されている人が誰か知らないということもありません。教会の墓地に納骨されている人は、皆知り合いです。おじさんの先輩の教会員たちです。死ねば魂があるかどうか知りませんが、もしそうだとすれば、顔見知りの方々の魂の永遠に過ごすことになります。
 
 死後の問題は極めて個人的なことなので、それぞれの家庭、個人それぞれの考えがあると思います。おじさんの場合、とりあえず夫婦一緒に死んだ時の場合もあるので、何かあったら牧師さんに連絡すれば全てやってくれるからと言っています。
 
 明日は結婚記念日なので、食事に行きます。