新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

引っ越しの思い出ーはるばる遠くへ来たものだ

  今日は晴れたり曇ったりの妙な天気です。ツマクマはヨガ・義母はフラに行っています。(フラとはフラダンスのことです。)義母は90才になるのですが、元気にフラに行っています。
 
 相変わらず対ドル・ユーロ安です。おじさんが10月にヨーロッパに行った頃は、対ユーロは一番の円高に近い水準で1ユーロ101円くらいでした。それが今では109円近くになっています。ドルも76円くらいから81円近くになっています。輸出企業にとってはありがたいことだと思います。
 
 息子は鉄鋼メーカー勤務なので、円安になると会社の業績が上がると思います。橋下市長は相変わらずの話題作りで、安倍元首相と会談したり、9条の改正を主張したりしているようです。期を見るに敏なので、常に世論の動向をみているのかもしれません。沖縄の基地の県外移転だけは、そんな約束して大丈夫なのと思っています。
 
 多分国民の多数の気持ちを先取りしているのでしょう。国政選挙は多数こそが正義なので、おじさんが何を言っても仕方がないと思っています。大阪の交通局の職員は給与の4割カットなのでお気の毒です。今でこそ給与も上がりましたが、民間が景気が良かったころはそれほど給与もよくなかったのにと思うものですが。(昔はどれほど安かったから後述しています。)
 
 今はとにかく公務員は何を言ってもバッシングを受けるので、皆黙っているのだと思います。給与もこれ以上下げたら、受験する人も働く人もいなくなるレベルにならないとバッシングは終わらないでしょうね。退職公務員でよかったと思います。(財政再建団体になって給与が激減した夕張市の職員は大勢やめました。)
 
 昔公務員は安月給で人気のなかった仕事なので、また昔に戻るだけです。大卒初任給15万円、最高でも30万円くらいになれば、国民の皆さんも納得してくれるでしょう。ただ良い人材を集めるのは難しいでしょうが。国民の皆さんは公務員など誰にでもできると思っておられるので、それでもいいでしょう。
 
 さて、今日は結婚記念日です。結婚して40年になります。うるう年に結婚したので、計算がしやすいです。昭和47年のことです。24歳でした。大学時代から付き合っていた彼女です。高校時代の同級生でもあります。偶然出会って、まさに赤い糸で結ばれたように、4年付き合って結婚しました。
 
 時はまさに浅間山荘事件の頃です。新婚旅行は北陸へ行きました、テレビは連日浅間山荘事件の報道ばかりでした。ところで、今日はおじさんと引っ越しについて書きます。考えてみれば、就職てすぐと、定年後よく引っ越しをしました。
 
 最初に赴任した学校は、内陸部の小さな都市でした。農業と小規模工業の街だったので、手軽なアパートがありませんでした。4月1日採用なのに、決定したのが3月の終わり頃だったので、アパートを探す時間もなかったのです。校長の紹介でみつけたのは、何と倉庫の2階の部屋でした。
 
 おじさんの社会人としての生活はそこから始まりました。水道もなく井戸水です。おまけに夏目漱石の「坊ちゃん」並みに、小さな町なので、パチンコなどしていると生徒に見られて、次の日の教室の黒板に「○○がパチンコをしていた。」などと書かれました。(○○はおじさんの名前です。)
 
 それで1年ほどして、となりの市に引っ越ししました。そこは昔旅館だった木造の大きな建物で、部屋を貸していました。ここも水道がなく、井戸水なのです。というと町はずれな場所を想像されますが、街の中心なのです。住んでいる時、となりに信用金庫の本店ができたことからも分かると思います。
 
 建築した場所には古い建物があったのですが、取り壊しの際、埃がひどかったのです。それで、一緒に住んでいる方から「あなたは学校の先生だし、会社に文句を言ったりできるでしょ。」と言われて、その信金に申し入れしました。すると即日業者が手土産を持ってお詫びに来ました。完成時には、完成パーテイがあるから来てくださいと招待状まで来ました。そんな思いでのある場所です。
 
 結婚して最初に住んだのは、当時流行していた文化アパートです。1棟に6軒くらい入居していました。(1階に3戸、2階に3戸)四畳半と六畳にトイレ・台所・風呂がありました。ただ私鉄の駅から歩いて5分くらいだったので、助かりました。回りは高級住宅街です。
 
 関西地方のことをご存じの方で、おじさんの住んでいた地域の名前を聞けば、なるほどと思われるでしょう。ある方に住所と住んでいるアパートの話しをしたら、あんな高級住宅街にアパートなどありますかねと言われました。問題は勤務場所は内陸部の小都市なのに、住まいは都市部にあったことです。通勤に2時間くらいかかりました。
 
 関西でも2時間くらいの通勤は珍しくないのですが、それは地方都市から中心部へです。ところがおじさんは逆なのです。定期券を買うために駅に行ったら、そんなところの駅まで定期が発行できますかねと言われました。私鉄を3つくらい乗り継いで行きました。(毎日旅行気分でした。)
 
 家賃は何と給与の半分くらいです。今橋下さんも含めて公務員給与は高すぎると言っていますが、おじさんが教師になった昭和47年頃(就職3年目)給与は文化アパートの家賃の2倍しかなかったのです。(手取り3万6千円で家賃は1万8千円)もちろんそれでは生活できないので、夫婦で働きました。ツマクマは別の市の保育所で働きました。
 
 ちなみに、余り教師が気の毒だというので、田中角栄氏が教員特別手当を創設してくれて、やっと一息つきました。そんなわけで、何とか住宅を確保するのが夫婦の課題になりました。そうこうしているうちに、やっと職員住宅に当選し引っ越ししまし。そこはある高校の敷地内にある職員アパートでした。
 
 ここは新興団地にあって、病院に子供を連れていって住所は○○アパートですと言うと、この団地にアパートなどありましたかねと言われました。それで○○高校の傍の県立高校職員住宅ですと言うと納得してくれました。○○高校は誰でも知っているからです。(○○高校はもちろんおじさんの勤務校ではありません。)
 
 
 何とか一息ついているうちに、いろいろ事情があって故郷の県に戻ることになりました。そこでも職員アパートに入ることができました。職員アパートでも新しいものと古いものとがありました。おじさんが入居したのは、古い方です。ガス風呂の点火部分に穴があいていて、点火すると火が戻ってきてまつ毛を焦がしたこともありました。
 
 東京都心の高級公務員アパートもありますが、そんな地方の公務員アパートもあったのです。アパートがそんなだったので、思い切って29歳の時に義父所有の土地に家を建てました。当時は右肩上がりの時代だったので、将来の収入を考えて家を建てることにしたのです。
 
 25年前に義父母と同居しました。(いわゆるマスオサン状態です。)もう引っ越しはないと思っていたら、中国の大学で教えることになって、引っ越ししました。せいぜい3年くらいと思っていたので、中国では3階建ての小さな官舎に1年ほど住んでから13階建てのマンションに引っ越ししました。ここに2年住みました。
 
 そして現在に至っています。ところで、中国に残っている先生に聞くと、あのまま中国に残っていたら、また新しい地区のマンションに引っ越ししなければならなかったそうです。
 
 男性の平均寿命が84歳とすると20年余命があるので、引っ越しがあるかもしれません。政治だけでなく人生も一寸先は何が待っているか分からないのかもしれません。
 
 あすは繁華街へでる予定です。