新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

人事異動の思い出―採用から退職まで

今日も晴天で暖かかったです。株価も小動きです。取りあえず消費税の動向をうかがうというところでしょうか。4月からは少し暇になるので、また大学の聴講に行くことにしました。今日申し込みに行ってきました。このことについては明日又書きます。

 昨日は4月1日だったので、おじさんの県でも人事異動がありました。今日はそのことについて書きます。この10年近く県立学校(県立高校と県立の特別支援学校)の教員採用数は50人程度でした。年によってはもっと少ない年もありました。

 大都市では、団塊の世代が退職し、数年前から大量採用があっているようですが、地方ではまだまだ教員の採用は少ないです。ところが、今年の県立学校は前年より100人以上多く採用しました。3桁に乗ったのは20年ぶりくらいです。民間企業と違って、教員の場合は中途退職がほとんどないので、ある年に大量採用すると、その人たちが退職するまで、採用が激減するのです。

 おじさんの県では団塊ジュニアーが高校進学する頃に大量採用がありました。これは高校を増設したからです。その時に大量採用したのです。今50代前半くらいになっています。おじさんが、新規採用された頃はどこの県でも教員採用試験合格者名簿を見て、各高校の校長が直接電話をかけてきて、自分の高校に来ないかと勧誘していました。

 おじさんが、最初に赴任した県はそうでした。当時は大量採用の時代で、15校くらいからお呼びがかかりました。(分校も含めて)おじさんが最初に勤務したのは、関西地方の県で、結構広い県でした。都市部もあったのですが、それは一部で郡部の高校の方が多かったです。

 聞くところによると、郡部の高校はどうしても人気がないので、郡部の高校からまず採用候補者に声かけをしているようでした。事実一番最初に声がかかった高校は郡部の農業高校でした。一緒に声がかかったおじさんの大学の同級生は、後で声がかからなかったらいやだからとその高校へ行きました。(その高校は12月頃に電話がありました。)

 後で同級生に聞くと教育困難校で大変だったようです。おじさんは、3月下旬まで待ったのですが、市にある高校が一つもなく、全て郡部の高校でした。そして、やっと市にある高校が来たので、すぐそこに決めました。ところが、そのあと、読者のみなさんが皆知っている市の高校からお呼びがかかったのです。

 一度OKすると断れないので、がっかりでした。故郷の県に戻った時は、そんなこともなく、教育委員会の方から赴任先を指定してきました。採用される人全員が一か所に集められて、次々に教育委員会の担当者が名前と呼んで、赴任先を告げました。赴任先は学校番号1番(県の一番はずれ)から順番に県庁所在地に近づいてきました。おじさんの住んでいた街はすでに通り過ぎていました。この先は行ったこともない街だと思っていたところで、おじさんの赴任地が示されました。

 その高校は県庁所在地のはずれにありました。赴任先の校長は、うちの高校は結構優秀ですよと言ったのですが、おじさんが高校のことは良く知らないと告げるとがっかりしていたようでした。赴任してみると、とても優秀な高校で、その頃の教え子は医者や大企業の工場長になったりしています。仲良くしている卒業生が一番多いのもこの高校です。

 1年後自宅を今住んでいる街に建てたのでその高校までは3年間遠距離通勤になりました。関西地方の高校でも1年間遠距離通勤でした。自宅近くの高校に転勤したのは、最初の高校に赴任して4年後です。次に赴任した高校は自転車で通勤できる場所でした。そこでは9年勤務し、その高校の近くの別の進学校に転勤しそこで12年、最後は母や娘も通った高校で8年間勤務しました。その高校で定年です。

 結局関西地方の高校を2校(5年)、故郷の高校を4校(33年)勤務しました。教師によっては3年周期くらいで転勤する人もいるし、20年以上一つの高校に勤務する人もいます。結構はっきり分かれるようで、じっくり腰を落ち着けてやりたい人や色々な学校を経験したいと言う人もいるようです。

 おじさんはどちらかと言うと、新しい学校で苦労するのはいやなので、結構長期に勤務しました。今考えると、色々な学校を知ってもよかったと思っています。

 明日は自宅の畑仕事をする予定です。