新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖書の言葉に思う。

今日は午前中は晴天だったのですが、午後からは曇り空です。雨が降るとの予報でしたが、まだ雨にはなっていません。以前は天気予報の信頼度が低かったのですが、最近は良く当たります。

 さて、今日は日曜日なのでいつものように教会です。今年度から教会学校の教師もしているので、以前より1時間くらい早く教会へ行かなければなりません。今日の教会学校中高科の説教を聴きながらふとあることを思いました。それについて書いてみます。

 聖書箇所は、あの有名な「人はパンだけで生きるのではない」というイエスの言葉の部分です。何を考えたのかと言うと、イエスの返答は問いに対する答えになっていないと言うことです。悪魔の質問は「この石をパンに変えてみなさい。」というものです。ですから、答えは「いや変えない。」か「よろしい、変えよう。」となるところです。

 又は「石をパンに変えたりできない。」です。しかし、イエスはそんな表面的な問いではなく、悪魔の質問の根底にある、人間は物資こそ至上のものとしているという考えに反論したのだと思います。事実別の個所ではイエスは水を葡萄酒に変えています。

 カメいっぱいの水を良質の葡萄酒に変えたくらいですから、石をパンに変えるくらい簡単だったでしょう。しかし、その奇跡を行ったとして、それを見てイエスを信じる人はどんな人でしょう。どんどん石をパンに変えてほしいと願うでしょう。それを断ったらイエスの元から去ると思います。

 そう考えれば、一見質問をはぐらかしたようなイエスの答えも、本当は真実を見抜いていたのだと思います。宗教によっては、信じれば豊かになります、病気も治ります、家族も仲良くなります、と言うのもあります。それはそれでよいのですが、多くの場合、自分の願いがかなった時点でその宗教から離れていくでしょう。

 おまけに神様からしたらなんだか人間に利用されただけのような気になるのかもしれません。そうは言っても、神様は人間を幸せにしていくらのものだから、それで良いのかもしれません。いくらお願いしても何の返答もなかったら、やはり信じる気になれないでしょう。

 おじさんは洗礼を受けて45年(丁度4月30日に受洗したので)になりますが、祈りはかなえられると確信しています。しかし、どのような形でかなえられるかまでは不明です。例えば、お金がほしいと祈った場合、お金を拾ったり、宝くじに当たったりするわけではないと言うことです。

 本当につらい仕事を何年間も泣きながらこなして、全然祈りがかなえられないじゃないか、やっぱり駄目かと思っていると、突然思ってもみなかった会社から破格の待遇で来ないかとオファーがあったりするようなものです。

 おじさんの独断的な神理解によれば、神様は全世界のコントローラー(統制者)のようなもので、いつも世界中に目を配って、あちらに動かしたりこちらに動かしたりしているようです。長期的に見れば結構つじつまが合っていると言うところです。

 こんなことを言うと熱心なキリスト教徒の人から怒られそうです。おじさんも熱心でないわけではないのですが、長い年月を生きてきてやっとそんな心境になりました。そう思うようになったのは、中国の大学で教えるようになってからです。

 地方の一介の高校教師がはるか中国内陸部の大学で教えるなど、奇跡に近い出来事です。人知を超えた大きな力を感じました。そして、そこには、おじさんを待っている人たちがいたのです。旧約聖書のコヘレトの言葉(旧伝道の書)の「全てに時がある」、とう言葉こそまさに真実だと思います。今日もまたとりとめのない文章になって申し訳ありません。

 明日はたまっている教会関係の書類つくりなどをします。