新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

現代社会を中国古典で考える。ー論語を中心に

今日は午前中は曇り空でした。午後からは少し晴れてきました。午前中は学校の仕事です。採点はほぼ完成しました。後は得点集計だけです。この学校では中間考査から平常点を加味するので、提出物や小テストの点数を入力しました。

 明日は教会なので、月曜日に点数を出して、中間考査の点数(平常点を加味したもの)を出すつもりです。さて、今日はブログで何を書こうかと思ったのですが、来週から古典を教えることになるので、それにちなんだ内容にしました。日本の古典は教訓じみたものが少ないので、中国古典にしました。

 中国古典と言えば中心は論語です。まず最近やや人気に陰りの出た大阪市長から始めましょう。おじさんとは立場を異にするので、どうしても厳しい言葉になります。「巧言令色少なし仁と。」がふさわしいでしょう。意味は巧みな言葉や人当たりの良い顔に仁(人間らしさ)は少ないというのです。

 まあ大阪市長の辣腕に期待する人も多いのでこのくらいにしましょう。と言いつつ、もうひとつ思いつきました。「至誠にしてかわらざる者いまだあらざるなり。」です。誠を尽くして人に接してかわらなかった人はいまだいないと言うのです。逆に力で人をかえようとすれば、人は心からかわらないでしょうね。

 次に、今保守派では防衛力の強化を言われています。それについて有名な言葉があるので、それについて書きましょう。これは以前にも書いたことがあります。「兵、食、信」についてです。孔子の弟子が、社会に必要なものはなんですか、と聞きました。

 孔子は兵を整え、食を満たし、民には信義の心を持たせると答えました。弟子はさらに、この3つの中で仕方なく、一つ取り去るとしたらなんでしょう、と聞きました。答えは「まず兵を去らん。」です。つまり軍備を縮小すると言うのです。

 「平和ぼけ」した日本人ではなく、動乱の時代を生き抜いた孔子の言葉ですから、決して机上の空論ではありません。今財政がひっ迫している状況では、孔子の言葉に従えば、軍備増強なぞ全くおろかな政策ということになります。

 次に、さらに取り去るとしたら何ですか、と弟子が聞きました。孔子は「食を去らん」と言います。食とは経済のことでしょう。理由として、人間には皆死があるとします。つまりいくら食べ物があっても、所詮人間は死ぬのだといいます。

 そして「信」を残した理由として「民信なくんば立たず」と言います。つまり民に信義の心がなくなれば、国は成り立たないと言うのです。小泉改革も含めて新自由主義は人々の絆を分断しました。極端に言えば法に触れない限り儲けるためには何をしてもよいと言うのです。

 その結果、弱者が弱者を差別する傾向(東アジアの人に対する蔑視的表現がネットに氾濫しているのがその一部です。)があります。また、人々は既得権益者と言う敵を探して、それを叩きのめすことに狂奔し、いつも敵を探し求めています。(敵は以前は金持ちだったのですが、今は公務員・議員・正社員・中高年の社員・高齢者など)

 現代社会は不寛容の社会と言われます。災いを及ぼすものは、全て排除するか封じ込めるべきだという風潮が蔓延しています。互いに助け合うどころか排除と封じ込めなのです。

 震災がれきは、被災地に留めようとし、震災地付近の農作物や魚はどんなに安全と保障しても排除します。米軍基地のような迷惑施設も沖縄に閉じ込めて自分達の街へ持ってきては困るのです。安全と分かったものでも、万が一を心配して排除します。それなら、その排除されたがれきと毎日暮らす地元の人や沖縄の人のことは考えないのでしょうか。

 孔子は夫子の道は忠恕のみと言います。夫子とは立派な人のことです。忠恕とはおもいやりの心です。現代では夫子の定義が変わって、夫子は他者を排除し、自分たちの生活を守る人のことでしょうか。また、孔子の言うような夫子はいなくなったのでしょうか。

 もちろんおじさんは、がれきの受け入れに賛成です。いやなことこそ、皆で分け合うべきです。己の欲せざることを人に施すことなかれとも言います。自分がしてほしくないとこを人にするなと言うのです。もちろん、この己は被災地の人です。

 自分が被災者の立場になって考えることこそ、本当の絆だと思うのですが。青臭い理想論かもしれませんね。ただ信義なき国家は滅びることだけは間違いないと思います。国家や組織は外部からの圧力で崩壊するより、内部の腐敗と争いからほろびることが多いからです。仮に外部からの圧力で崩壊したように見えても実はすでに内部崩壊が進んでおり、外部の圧力は最後の一押しだというケースが多いでしょう。

 明日は教会です。