新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

山上の説教雑感

今日は一日中雨でした。今も雨が降り続いています。明後日はいよいよ消費税値上げの採決です。今日明日と東京の永田町では、慌ただしい動きがあっているのでしょう。いまさらどう転んでもどちらでもいいと言う気持ちです。民主党が分裂しても、解散総選挙になっても、野田政権がうまく危機を乗り越えてもです。

 所詮、来年までには総選挙があるでしょうし、民主党は大敗し、自公連立政権が復活し、第三極の政党が進出し、政治がさらに混迷するだけです。今の国論が二分された状況では、微妙な問題は何も決められないでしょう。第三極の政党にしても、国政の運営経験がないのですから、どちらに賛成してよいか分からないはずです。

 新人や若い人を有難がる傾向がありますが、色に染まっていないという面で評価できますが、別の面で言えば未経験とも言えます。企業でも最低10年は経験を積まなければ重要な決定は任されないでしょう。(10年でやっと係長級です。)どんなすばらしい人材でも最低3年は経験しなければ何もできないはずです。(学校のようなところでも3年でスタートラインです。)

 それが国会議員の場合、国民の支持があったと言うだけで、国家の趨勢を決めるのですから恐ろしい気もします。小泉選挙以来、新人議員が出ては消えています。今回もそうなるでしょう。民主党の新人議員が消えて、第三極の政党の新人議員がでてくるだけです。多分次の総選挙の時はまた新人議員は消えているでしょう。

 さて、そんな愚痴はやめにして、今日は日曜日なので教会ネタです。以前書いたように教会学校では有名な山上の説教をシリーズでやっています。おじさんの担当は「思い悩むな」でした。今日は「求めなさい」でした。あの有名な「求めよさらば与えられん」(文語訳)です。また山上の説教の「人を裁くな」では日本でもよく知られた「豚に真珠」のことわざもここにでてきます。

 正式には「真珠は豚になげてはならない。」なのです。「人を裁くな」の節では「人を裁くな。あなたが裁かれないようにするためである。」とあります。これはまさに現代にぴったりです。先日読んだ「ネットと愛国」では在日朝鮮人・韓国人に罵声を浴びせるグループのことが中心に書かれていました。

 日常生活で聞くことができないほど下劣な言葉を投げかけるようです。もし日本人同士なら間違いなく大喧嘩になるところでしょう。ここでは日本人であるというその一点から在日外国人全てを裁いているのです。

 読んでいて胸が苦しくなるほどです。同じ日本人としてあそこまで他者を侮蔑し聞くに耐えない言葉を使えるのだろうかと思いました。自分が外国にいて同じ言葉を投げかけられたらどう思うのだろうかとも考えました。聖書の言葉は、真実の鏡なのです。

 自分がそれを実行できるかどうかではなく、その言葉を自分に投げかけた時どう答えられるのかということです。裁く自分がいるとすれば、当然神に裁かれる自分がいるのです。神は裁いている人間に向かって「では裁いているあなた自身はどうなのですか。人にそんなひどいことを言える資格があるのですか。」と聞いているのです。

 大声で他者をなじり、軽蔑の言葉を投げかけば、きっとすっきりすると思います。普段うっ屈したものがあればなおさらです。しかし、普通の人はそんなことをしないのです。「ネットと愛国」に登場する人たちも、実名や日常生活を取材されることを極端にいやがるそうです。

 つまり仮想の自分が他者を軽蔑しなじっているのであって、それは現実の自分ではないという認識があるようです。自分がやっていることは、現実世界では許されないと知っているのです。本に登場する人物たちは、山の頂上で「○○のばかやろうー」と叫ぶ「ばかやろう大会」の感覚で他者をなじっているのです。

 しかし、山の頂上の「ばかやろう大会」と違って、言われて傷つく人たちがいるのです。さきほど書いた豚と真珠の話の続きがあります。「真珠を豚にやってはならない。」に続いて「それを足で踏みにじり、向き直って、あなたにかみつくだろう。」です。

 もうひとつ印象的なのは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」という言葉です。今日のブロゴスにも被災地のがれき処理について書いてありました。(がれきの広域処理に反対の立場)北九州市ががれきを引き受けるというので、逮捕者がでるほど騒動になっていました。

 ブロゴスの記事は、がれきは現地で処理すれば十分だというの主張です。それにがれきはそんなに残ってないというのです。しかし、北九州市の市長が現地を視察したら膨大な量のがれきが残っていたと話ていたし、現地のタクシー運転手も早く撤去してもらいたいと言っていました。

 これを聴くとどちらが正しいのか分からなくなります。ただ現地の市長さんが、全国に協力してもらいたいと言っているのは間違いありません。(テレビでそう言っていましたから)立場が逆であったら、今受け入れに反対している街の人も、今度は是非受け入れてほしいと思うでしょう。
 
 義母も「楽しいことは自分だけでしなさい。いやな事は大勢でしなさい。」と言う諺があると言います。嫌なことを一人ですると気がめいるものです。大勢ですれば嫌な気持ちが分散するのです。

 がれき受け入れ反対の人のために一言だけ言うなら、がれきを拡散させて被害を拡散させるなと言うのなら、それは「がれきを集積させて、分散させることで受ける被害をあなた方が自分たちの代わりに犠牲になって引き受けなさい。」ということでしょう。津波で親族や知り合いの人をなくし、家を失い、仕事を失った人に、他人に迷惑ながれきを拡散させるな、自分たちだけで濃縮されたがれきの放射能(何と言っても山積みになっているのですから)を引き受けなさいと言っているようなものです。

 分散されたがれきでさえ放射能が心配なら、山積みになり濃縮されたがれきの近くに住む人はどうなるのでしょうか。いやならそこから出て行けばよいと言うのでしょうか。「絆」「頑張れニッポン」というスローガンが空しくなる思いです。

 明日は家の外壁の点検に業者の方が来ます。