「若者は幻を、老人は夢を見る」-聖書の世代論から
今日は久しぶりの晴天です。風はちょっと強かったのですが、おかげで涼しかったです。今日は日曜日なので教会です。今日は教会学校(中高生)の説教だと思って張り切って準備したら、担当日の間違いでした。
本当は第5週だったのです。ところで今日は日曜日なので聖書ネタにしました。今世代間格差論がかまびすしいので、聖書は世代の違いをどう見ているのか考えてみました。
現代以外の全ての時代において、年長者は尊敬されました。長い人生の経験が有用だったからです。様々な説話では、年長者がひどい扱いをされますが、その人生の知恵で難問を解決し、その結果また尊重される結果になります。
しかし、高度情報社会では、人生の知恵や長年蓄積した技術のようなものは尊重されません。それに医療水準や栄養状態が悪かったので、老人が長生きするのは困難でした。今のように若者より高齢者の方が多い時代は、人類の歴史上初めてです。高齢者が少数だったから尊重されたのかもしれません。
聖書が書かれたのは古代ですから、当然高齢者を尊重すべきであると教えています。十戒では「あなたの父と母を敬え」とあります。アジアの代表的な道徳である儒教でも同様高齢者(年長者)を尊重すべきだとしています。アジアで、高齢者を邪魔者扱いするのは日本くらいでしょう。
と言っても、これから急速に高齢化の進む中国・韓国などでも日本同様の高齢者邪魔者論が台頭するか注目されるとことです。少なくともおじさんの体験では、中国ではまだ高齢者を邪魔者扱いする風潮はありません。様々な施設の入場料も60歳以上ですと安くなるし、高齢者専用の窓口もありました。若者が大勢並んでいる横で高齢者はすぐに切符を手に入れることができました。もちろん、それに不満を言う若者などいません。
最初読んだ時今一つ意味がピンときませんでした。しかし、良く考えてみるとなるほどと思いました。夢と幻はどう違うのでしょうか。夢は現実の延長です。ご存じの通り夢は人間の脳が作りだすものです。そう考えれば夢は現実をベースにしています。
老人の夢はどんなものでしょうか。残念なことに、老人には残された未来は短いです。サイトを見ると団塊の世代に対するバッシングがひどいのですが団塊の世代も後15年もすれば80歳になります。ですから、何とかかんとか言っているうちにいなくなるでしょう。
話は戻りますが、この老人の見る夢とは、もしかしたら過去の出来事なのかもしれないと思いました。未来に夢を見ることのできない老人は過去のことを夢にみているのかもしれません。おじさんについて言えば、過去の夢を見ることがしばしばあります。
以前勤務していた学校にいる夢です。その時の同僚や上司がでてきたりします。ところで若者は幻を見るはどうでしょうか。こちらの方が分かりやすいです。幻は現実と全く無関係に存在するものです。老人の発想は既成のものに縛られてしまいます。
しかし、若者の発想は既成のものに縛られない発想が可能なのです。逆説的ですが、何もない時代の若者(戦後すぐなど)は多いに幻を見ることができました。何もない故に何でも自由に発想できたのです。何もないことは、これから何でも作ることができたし、失うものもなかったのです。
残念ながら今の若者は余りにも多くのものがあります。そのために、幻を見ることができません。幻を見て、現実に持っているものを失う勇気が持てないのです。なんだか幻を見ないで、現実を見すぎているが故に冒険もできず、夢を追っている気がします。
自分探しなどというのは、夢であって幻ではありません。なぜなら今の自分をベースに理想の自分を探しているのです。今の自分を全て捨てて、全く別の自分になることが幻を探すことでしょう。かって、日本人は幻を探して、海外に移住したり、海外旅行にでかけました。
戦前や戦後すぐブラジルなど南米に大勢の人が移住したのです。若い方でそんな歴史を知っている人は少ないでしょう。また戦前であれば、中国大陸や南洋諸島に移住しました。これも幻を見てです。今若者は海外に出たがらないそうです。今の日本ほど豊で安全安心な国はないからでしょう。
夢は見ても幻を見ない国が栄えることは難しいと思います。10年後くらいに大きな財政危機がやってきて、それをきっかけに若者の生き方が変わると思います。財政危機がやってきて、医療費が抑えられるようになれば、世界有数の長寿国家も変化するでしょう。
混沌とした情勢(国内・国外とも)の中で自分を失わないしっかりとした、基準として信仰は有効だと思います。明日は今週の授業準備をします。