新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

格差社会について考える。

今日はとうとうおじさんの街も真夏日になりました。しかし、風が強いので結構涼しかったです。明日も真夏日になりそうです。明日は授業なので大変です。通勤は良いのですが、暑いと学生さんが寝てしまうので困ってしまいます。まあ国語の時間など、工業系の学生さんには退屈だろうと思います。

 株価もアメリカ市場が大幅アップだったので期待したのですが、さっぱりです。相変わらずの円高ですから仕方ないと思います。サイトの記事によってはアメリカ経済が復調しているとありましたが、はたしてどうでしょうか。アメリカの金利が上昇しない限り円安にはならないと思います。

 さて、今日は最近よくサイトで格差社会論についてみるのでそのことについて書きます。論点は格差が広がるのは仕方がないのか、格差は解消されねばならないのかと言うことです。

 なぜ格差論が現代問題になっているのかについて考えてみました。まず正規社員が減少し、非正規社員が増加したことがあります。高度成長の時代は人手不足もあって、正規社員として終身雇用するのが常識でした。しかし、新興国の追い上げもあって、非正規社員が増加しました。

 この傾向が変化することはありません。また正規社員でも大企業と中小企業では待遇に差があります。公務員の場合、景気によって給与が左右されないので、以前低かった部分を高度成長の時代に引き揚げたままになっているのです。公務員の場合、民間企業のように景気によって劇的に増減しないようになっているのです。

 将来どうなるのでしょう。格差が拡大することは間違いありません。格差とは少数の高収入の人と多数の低収入の人に分かれることです。以前は低収入だが安定した雇用によってフォローされていました。簡単に言えば高くはないが、そこそこの収入の人が大勢いたのです。

 まず企業の海外進出とデフレで、そこそこの収入の人が減少しました。企業の海外進出と安い品物の輸入でそのような職種が激減したのです。その代表が大企業の現場労働者です。中小企業労働者の場合、海外進出はない代わり安い新興国の商品との競争やデフレの影響を受けています。

 逆に高収入な人とはどんな人でしょうか。まず外資系企業が考えられますが、こちらは現在総崩れ状態です。外資系と言ってもメーカーははとんどなくて金融系が中心でしょう。ヨーロッパもアメリカも金融系は総崩れです。それに外資系で働くには語学力や専門知識が必要です。

 専門技術者の場合も高収入ですが、高度な専門知識が必要です。その最たるものが医者でしょう。大企業のサラリーマンのほとんどは文系出身です。高収入と言えば金融・商社などです。このような職場に入社するには、大変な競争に勝たねばなりません。メーカーの事務系の場合、募集人員が極めて少数です。

 大企業への入社は、並みの大学では無理です。就職四季報と言った本がありますが、それを見ると金融や商社に入社できた人の出身校はやはり旧帝大早慶出身です。偏差値の高い大学でなければそんな企業に就職できないようです。もちろん、偏差値の高い大学であっても、大企業に就職できるとは限りませんが、偏差値の低い大学から入社するのはほとんど不可能と言えます。

 メーカーの場合、技術系であれば大学院修了が基礎資格です。つまり格差社会の上位者になれる資格の人は極めて少数と言うことができます。高度情報社会では、個人の努力や勤勉だけでは豊になるのは難しいようです。まず知力が圧倒的に必要です。次に体力、さらには精神力(精神的な耐性も含む)、コミュニュケーション能力です。

 さて、格差社会で上位につける人が少数なのは先述した通りです。それでは格差を認めるのか、縮めるべきかですが、日本のような同質社会では社会の安定のために縮めるべきだと思います。格差はあるけれど成長する社会はある面不安定になります。

 優秀な移民を導入したり、安い労働力を導入して企業業績を上げたヨーロッパ社会が移民問題で苦しんでいるのと同様です。日本の場合、島国なので外国人と一緒に生活することは極めて困難だと思います。

 優秀な人には申し訳ないのですが、所得の再分配によって平準化を図るしかないでしょう。高所得の人もそのおかげで、安全安心な社会に暮らせるのです。江戸時代が250年間も続いたのは、やはり社会を安定化する方向に進んだからだと思います。

 戦国時代はまさに能力主義の時代でした。槍一本で大名にでもなれたのです。その代わり戦争(競争)が必要でした。江戸時代は能力主義をなくした代わりに安定かつ継続可能な社会を作ったのです。

 まあこの考えに不満な人も多いと思いますが、残り少ない年月を生きるおじさんとしては、安心安定な時代こそ望ましいのです。旧ソ連や東欧諸国のように社会システムを劇的に変化させるのは勘弁してほしいです。格差を肯定して、変革を求めるとしたら、誰かの言葉ではありませんが、「我が後に洪水来たれ。」(大変革は私がいなくなった後でやってほしい。)です。

 明日は授業です。授業後来学期の打ち合わせなどがあるので、ブログはお休みになるかもしれません。