新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

献金についてー「贈与の歴史学」を通して考える。

今日はすっかり夏日です。と言っても正式にはまだ梅雨明け宣言はありません。大学の授業は土曜日の現地実習で終わりました。後は今週の授業で予定は終了です。地方史講座も今週の土曜日でおしまいです。代わりに今週の金曜日から8月終わりまでほぼ毎週「決算書の見方」講座に行きます。

 経済学部こそは出ていませんが、毎週経済週刊誌(エコノミスト東洋経済・ダイヤモンド)を見、旅行には日経新聞を持って行き、株式投資歴40年なのに、肝心の決算書は売上と当期利益くらいしか見ないのです。決算書が読めれば、会社の現状が分かると言われているのに恥ずかしいので、この年になって基礎からちょっと勉強します。

 さて、今週まで授業があるので、学校の図書館から「贈与の歴史学」(中公新書)を借りて読んでいます。そこに書かれた内容と毎週教会で捧げている献金と重なるところがあったので、今日はそのことを書きます。

 良く教会に行くと献金しなければならないからいやだという方があります。そもそも献金とは神様から与えられたものの一部を神様の御用(この場合は教会の働きなど)ためにお返しするという主旨なのです。それが、この本の中では「神様に対する贈与の義務」としてでてきます。

 もちろん、その本の中でも神様への贈与は「現代になってもっとも希薄化したものであり」、同時に「日常生活のなかで実感する機会」の少ないものとしています。ちなみに他の贈与に関する義務は「贈り物を与える義務」(仲人に中元やお歳暮をする義務など)、それを受ける義務(仲人宛てに贈られたお中元やお歳暮を受けとらないのは失礼になるなど)、お返しの義務(香典返しなど)などです。

 お経を上げてもらった時に差し上げるお布施なども、お坊さんへのお礼の気持ちもありますが、基本的にはお坊さんを通して神様に感謝の気持ちを差し上げるということになるでしょう。労働(お経を上げる)への対価と考えるのは難しいでしょう。そうなれば、お経を上げるのにかかった時間に対していくらということになるでしょうし、高僧と駆け出しのお坊さんではお布施に差を出すことになります。

 そうなれば、僧正なら10万円、小坊主なら5千円となりますが、ちょっと変でしょう。それから、日本では高額のお布施やお賽銭は余り聞かないのですが、著者は世界的にみても日本の神々は「人に多くを要求することがなく、極めてつつましい部類に属する」と言います。その理由もおもしろくて(多分半分は冗談だと思いますが)「捨てる神あれば拾う神ありという神々の競合状態が、贈与額の高騰を抑制してきた面があるに違いない。」と言います。

 確かに神社などは、どこも「家内安全」「商売繁盛」「無病息災」をうたっています。さすがにお寺は遠慮してそこまでは言いません。中国では神社の代わりにお寺が交通安全から商売繁盛、無病息災までを担っています。神社のようなライバルがいないので、仏画などを前述の保障として売っています。

 中国の旅行中、3000元(3万6千円)くらいで仏画を買った女性もいました。シャングリラというチベットに近い街のお寺での話です。病気がちの女性は病気が治るというので買ったのだそうです。(通訳の学生さんの話)大都市のOLで、預金を銀行から下ろして買ったそうです。

 日本でも三万円以上する仏画となれば結構な値段ですが、物価の安い中国では3000元は大卒初任給1月分です。(物価水準を考えれば日本の30万円くらいの値段)ライバルの神仏がいないと神様への贈与の高額になるようです。(中国ではキリスト教道教は少数です。)

 ところで神様への贈与は後に税金の形をとるそうです。日本でも古代の租庸調のうち租は元々土地の収穫の一部を神様にお返しするという性格のものだったという説があるそうです。そう言えば、教会でもそれに近いことを聞いたことがあります。最初の収穫を初穂といいます。

 教会の財務担当長老(役員)の方が、献金はまず収穫(月収)から真っ先に分けるべきです。そして月の初めに感謝をもって捧げるものですと言っていました。この本に書いてあった初穂のイメージと一致します。キリスト教にも同じような初穂を捧げる教えがあるようです。

 またその差し上げる率ですが、以前ヨーロッパでは10分の1税と言うのがあって、収入の10分の1を教会に税金として納める決まりがあったと聞いたことがありました。率は確かではありませんが、今でも教会税と言うのがあって、市などが承諾している人から徴収して教会に与えるというのを聞いたことがあります。

 中世の日本にも同様の決まりがあったとして驚きました。これは石清水八幡宮の文書にでるもので「庫倉納物十分の一を割きて仏神事に廻向すべきこと」という文句があるそうです。庫倉納物とは収穫・収入の意味でしょう。中世ヨーロッパと中世日本とが同じ規定を持っていたのも偶然とはいえ面白いです。

 現実問題として、教会の場合お寺のように戒名代とかお布施とか言った収入がないし、檀家(教会員)の数が教会はお寺に比べて圧倒的に少ないです。日本の場合、献金を毎月決まって捧げる教会員の数は全国平均で言えば1教会30人くらいです。(教会員全体でも50人程度の教会が一番多いようです。)

 おじさんの教会では教会員は70人近くいますが、毎月献金をしているのは80%くらいでしょう。献金額もまちまちです。平均5千円と言ったところでしょうか。(正確には知りません。)もちろん、それ以外に収入としては、礼拝献金があります。これは礼拝の際に捧げるもので、こちらは一人平均500円くらいです。ワンコインの感覚です。

 そう言えば中国でも5元という単位が一番使いやすかったです。1元は100円、5元は500円と言った感じです。10元だとちょっと高いという感じでした。昼食で麺屋さんに行くと、大体6元か7元でした。日本の素うどんのようなものは4元、ちょっと何か入ると5元から6元と言ったとことでした。

 ちなみに靴磨き1回2元、コーラは5元、ミネラルウオーターは2元くらいです。1年前なので、物価がまだまだ上がっているかもしれません。

 話はそれましたが、献金の中で一番神様への贈与(感謝の気持ち)の意味合いが強いのが感謝献金です。これは自由ですが、多いのは誕生日献金(自分や子供、孫など)、入学就職など。また自分の結婚記念日や受洗記念日などにも感謝献金をします。

 おじさんも孫の誕生日には献金をします。(もちろん自分の誕生日も)考えれば子供たちが幸せな結婚をして、孫が与えられ、その孫たちが無事に成長していけたのは神様のお守りがあったからだと思います。信仰がなかったら、孫が病気の時誰に治癒をお願いするのでしょうか。治してくれるのはお医者さんですが、それとは別に神様の何とか良くなりますようにとお願いできることは本当に幸せだと思います。

 もちろん誕生日献金はわずかですが、皆が無事に過ごせた感謝の気持ちだと思えば快く献金する気持ちになれます。そのために多く収入を得て多く献金できたらとも思います。ちなみにおじさんの場合、株式投資などで思いがけず利益が出た時も感謝献金をします。自分が額に汗して働いて得た収入でないだけに、一人占めするときっと良くないと思うからです。

 今日は献金についてあれこれ書きました。明日は忙しいのでブログはお休みの予定です。火曜日に再開します。