新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「奇跡」の後ー奇跡に出会えば信仰を持つのか

今日は夏日でしたが、夕立などもあって涼しくなりました。ところで、今日本屋で、ある保守派の雑誌を見ていると、「ネットウヨク」について特集していました。結論から言えば、正統保守派に言わせれば、ネットウヨクは気持ちは分かるが、ちょっと違うのではという論調です。

 さらに極端に言えば、正統保守派としては過激なネットウヨクは迷惑だという感じです。一部主張が重なるだけに正面から否定はできないけれど、ネットウヨクのようなことばかりしていたら、正統保守派までも一般大衆から見放されると言う危機感を抱いているようです。

 維新の会についての正統保守派の意見にも同じようなとまどいが見られます。維新の会やネットウヨクの人達にしたら、伝統的なマスコミ(保守派の雑誌)に依拠する正統保守派自身が既成勢力に見えるのだと思います。日本全体が分裂しつつある状況を良く象徴しているようです。

 さて今日は久しぶりにキリスト教ネタです。2週間ほど前の説教から書きます。出典はヨハネ福音書5章以下の記事です。その箇所のサブタイトルは「ベトサダの池で病人をいやす」です。

 これはある種の奇跡の物語です。結構知られた話です。簡単に言えば38年も病気に苦しんだ人が救われる話です。この人の場合、足が不自由で寝たきりだったのです。このベトサダの池には不思議な力があって、まれに水が動くのです。

 その時すぐに池に入れば病気が良くなると信じられていました。それで大勢の病人が池の周りにいて池の水が動くのを待っていました。ところが、この男は足が不自由なので、池に降りれなかったのです。

 イエスはその男に向かって「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」を言われました。するとその男の足がたって、歩けるようになり床を担いで歩きだしたのです。

 ここまでなら単なる奇跡の物語です。おじさんもここまでしか知りませんでした。しかし、その後の話があるのです。このイエスの奇跡によって救われた男はその後熱心な信者になったのでしょうか。それであれば、おじさんも別にブログで書いたりしません。

 問題はその後です。このイエスの癒しが行われたのが、悪いことに安息日でした。当時のユダヤの教えでは安息日に癒しのようなことをしてはいけなかったのです。特にイエスを憎んでいたパリサイ派(宗教原理主義者)は、なぜお前は床を担いでいるのかと言いました。

 するとこの癒された男は、すぐに自分がしていることが律法(ユダヤ教の教え)に反していることに気がつきました。普通長年病気で苦しんでいて、救われたなら救ってくれた人を陥れるようなことはしないのですが、この男は「わたしをいやしてくださった方が床を担いで歩きなさいと言ってのです。」と責任を転嫁してしまうのです。

 当然パリサイ派の人は「言ったのは誰だ」と聞きます。この男はイエスを知らなかったのですが、またイエスはこの人と神殿で出会うのです。イエスからはもう罪を犯してはいけない、「さもないともっと悪いことが起こるかもしれない。」と警告されたにもかかわらず、裏切るのです。

 すぐ後にこのような記事がでてきます。「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。」とあります。何と言う恩知らずなのでしょう。普通奇跡を起こしてもらったら感謝するはずなのに、イエスを裏切るような行為に出るのです。

 その結果どうなったでしょう。記事は続けて「そのためにユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。」とあります。よく宗教は奇跡があるから信じるのだと言います。しかし、これは間違いでしょう。本当に信じる気がなければ、たとえ奇跡を行ってもらったとしても、裏切るのです。

 人間の性(さが)を見たような気がしました。まあ人間というものはかくのごとく罪深いものなのかもしれません。信仰に入って45年になりますが、今でも信仰や聖書についての新しい発見があります。

 明日も孫たちのお世話です。