新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「パンと魚の奇跡」について考える。

今日はにわか雨などもあって、結構涼しかったです。世間では政党の党首選挙や第三極の離合集散などで、大騒ぎです。

 まあ、せっかくの日曜日なので、そんな生臭い話はやめて、この世離れした聖書の世界の話を書きます。聖書には4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)があります。それぞれの福音書は微妙に内容が異なっています。例えば、有名なクリスマスの話はほとんどルカ福音書の話です。

 今日取り上げるヨハネ福音書には、クリスマスに関する記事は全くありません。また同じ内容の記事であっても、福音書によって微妙に異なるのです。

 もちろん、ある福音書に取り上げられていて、別の福音書には取り上げられていない記事もあります。奇跡物語の中で、全ての福音書に取り上げられている記事が、この5000人の男性に5個のパンと2匹の魚で満腹させた話です。

 福音書の記事は、著者が重要だから書こうと思ったものばかりです。多分4人の著者は共通の参考資料を持っていたと思います。その中で自分が重要と思う記事を取捨選択したのでしょう。ですから、全員がこれは大事だあるいはこれは感動したという記事は珍しいと言えるでしょう。

 この話は、イエスが群衆5000人に食事を与えなければならなくなったところから始まります。今回はヨハネ福音書の記事(ヨハネ福音書6章1~15)です。他の福音書では、群衆の集まった場所が不便なところだったことにこだわりますが、ヨハネは余りこだわりません。

 代わりに、ある弟子の固有名詞がでているところが特徴です。弟子の名前はフイリポと言います。彼は物事を論理的に考える弟子だったようです。イエスは彼を試すために、「パンをどこで買えばよいだろうか」と聞きます。もちろん、ヨハネは書いていませんが、そこは不便な所で、とてもお店のあるようなところではなかったのです。

 フィリポはまじめに「めいめいが少しずつ食べるためのも、二百デナリオンでも足りないでしょう。」と答えます。二百デナリオンとは労働者200日分の賃金です。1日1万円と考えると200万円です。一番安い400円の弁当五千人分と言ったところでしょうか。

 実は、当時は女性や子供は数として数えないのです。今の教会でも女性の方が多いのですから、当時であっても男性と同数かそれ以上と考えると、全体で一万人近い人間ということになります。

 フィリポの考えはこの世的な考えです。簡単に言えば常識あるいは論理の世界です。イエスの世界は非論理の世界なのです。宗教の世界は論理の世界でなく、非論理の世界なのです。これは、ブドウ園の労働者の話にも共通します。(ルカ福音書20章6~19節)非論理と言っても迷信やオカルト的な世界ではありません。

 興味のある方はぜひ福音書を読まれてください。さて、イエスはどのようにこの事態を解決したのでしょうか。ちょうどある少年が大麦パン5個と魚2匹を弁当として持っていました。それを皆に配ったのです。そして皆が満腹した後、残ったパンくずを集めると12の籠がいっぱいになったと言うのです。

 この世の常識で言えば、一人がパンを1個食べれば、5人で全てなくなります。この世の計算は量的計算です。フィリポの答えがまさにそうでしょう。人数×個数×単価・・これがこの世の論理です。

 イエスはこの論理を無視します。神様は必要なものは必要なだけ与えられると言うのです。現実にどのように解決したのかについては、様々な説があります。ただ病気治癒の奇跡などと違って、個別の奇跡ではないのです。大勢の人間が実際に体験した奇跡だったのです。

 ひとつだけ有力な説明を紹介しましょう。当時の人はどこにでも食堂やホテルがあるわけではないので、最低限度の非常食を皆持っていたというのです。よく登山に行く時、雪などで閉じ込められた時のために、乾パン・ビスケット・チョコレートや飴、チーズなどの携帯食をリックにいれていると聞きます。

 そのようなものを、皆が少しずつ出し合ったというのです。たとえ、そうだとしても奇跡であることに変わりはありません。5000人の人間が皆互いに助け合う気持ちになったからです。(女性や子供も含めれば一万人)目の見えない人間の目が見えるようになったり、足が立たない人間の足が立てるようになるのも奇跡ですが、一万人の見知らぬ人間同士が、命の次に大切な非常食を分かちあうというのも奇跡でしょう。

 このパンと魚の奇跡は何度読み返しても印象深い話です。明日は月替わりなので、銀行であれこれ払込があります。