新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖書のたとえ話ー畑の中の宝をめぐって

今日は台風の影響で朝から雨です。これからだんだん風雨がひどくなりそうです。明日の午前中までは大変です。孫と娘は今日帰りました。ツマクマも一緒です。

 反日デモは大変なようです。おじさんが中国にいた時も反日デモがあるというので、大学と領事館から外出しないようにと通達がきました。まあ外交問題はそうですが、この数日中国で勤務していた大学の先生から日本語に関する質問が沢山きていました。

 スカイプやメールはちゃんと通じています。中国から帰って1年以上経過しましたが、以前と変わらず中国の先生方や学生さんとメールのやりとりをしています。今日もツマクマの教え子さんから、メールが来ていました。日本の大学院に留学したいのだが、両親から反対されているというメールです。

 しかし、最後にはその学生さんが両親を説得して、何とか留学できるようになったと書いてありました。サイトのコメントなどを見ると、中国人全体を軽蔑する表現が見られますが、中国には13億人いるのですから、良い人も悪い人もいるはずです。全てを否定するのはどうかと思います。

 ところで、尖閣問題や竹島問題などで、石破さんの方が有利に総裁選を進めているようです。派閥レベルでは石原さんでしょうが、地方では石破さんが有利なようです。安倍さんはさすがにちょっとと言うところでしょう。このままで行くとおじさんの先述した予想ははずれるかもしれません。

 さて今日は日曜日なので教会ネタです。今日は教会で年長者のお祝いの会がありました。教会で年長者というと75歳以上です。今年も3人の方が仲間入りしました。全教会員の三分の一くらいです。今日のニュースでもすでに65歳以上の高齢者が3000万人を超えたと報道していました。

 今年65歳になるのは昭和22年生まれです、この後23年、24年、25年と1歳につき200万人近い人が続きます。多分後3年後には65歳以上人口が3500万人を超えるでしょう。10年後には4000万人に達すると思います。

 いよいよ本格的な高齢社会の到来です。ところで今日のブログは年長者の会についてではありません。今日はおじさんが教会学校中高科の説教当番でした。今日の箇所はマタイによる福音書13章44節~50節です。副題は「天国のたとえ」です。

 そのことについて書きます。聖書特に新約聖書の中でイエスキリストは多くのたとえ話を用います。今日のたとえ話は、天の国についてです。その中の一つについて書きます。聖書というと謹厳実直まじめ一方とお思いでしょう。しかし、そうではないのです。

 天の国について、イエスは次のようなたとえ話をしました。ある農夫が畑の中で宝を発見した。彼はその畑をある人から借りていたのです。そこでその農夫は持っている物全てを売ってその畑を手に入れたとあります。ああそうかでは現代人として不合格です。

 その宝は誰もものか所有権はどうなるのかということです。元の持ち主はその宝のことは知らないで土地を売っているのです。宝は土地に付属するものと考えましょう。例えば、そこから石油が噴き出すと考えてもいいです。この農夫は畑を買って大儲けをしました。

 後でそのことを知った土地の所有者は、詐欺だと言って裁判所に訴えるかもしれません。聖書ではそんなことは何も触れられていないのです。この聖書箇所でいう宝とは神の国のことでしよう。宝=神の国としたら、この土地の持ち主は農夫に売らなかったでしょうか。

 農夫にとって宝=神の国は価値があっても、たとえ全財産を出して購入しても惜しくない、この土地の持ち主にとって価値のないものだったのかもしれません。このことを最もよくあらわしている番組が「お宝鑑定団」です。宝を持っていながら、その価値に気がつかないのです。

 また逆に宝だと思ったのに全く無価値のものであったりします。その価値判断をするのは鑑定士の方々です。この鑑定士の方々は権威を認められているからこそ、皆さんは納得するのです。つまり宝そのものでなく、その宝に価値があるという鑑定士の方々の言葉にこそ価値があるのです。

 そう考えると、このたとえ話も少し理解できます。聖書の言葉は、価値があると思う人には価値があり、価値がないと思う人には単なる一冊の本なのです。その価値はイエスキリストを価値判断ができる権威ある者と見るかどうかです。

 権威ある鑑定士と思えば、聖書の言葉は価値あるものになります。お宝鑑定団ではたった一つの茶碗が何百万円もし、一つの絵が何千万円(たとえばピカソなら)もするのです。全財産に匹敵するお金を出して美術品を買う人も大勢います。何億もする絵画などそうでしょう。

 聖書の言葉は、その価値を認める人にとっては何物にも代えがたい宝なのです。おじさんは、経済評論も政治批評も軍事評論もしますが、同時に聖書の言葉も信じています。

 もうひとつ、その箇所には最近語られなくなった審判について書いてあります。漁師と魚のたとえです。漁師は魚をとった後、良いものと悪いものに分けるとあります。聖書では人間は最後の審判の時に、良いものと悪いものとを裁くとあります。

 現代人には受け入れがたいことですが、これも含めて聖書の世界なのです。明日は雨のようなので、家で採点をします。