新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

自分探しの旅、自分を捨てる旅

今日は暑いほどの天気でした。来週の日曜日はいよいよ特別伝道集会とバザです。以前はバザで借入金を返済していたので、本当に大変でした。買ってくれそうな御得意さんに手作りのケーキを売ったりしていました。職場の方にも随分買っていただきました。

 今はバザの収益金は建物の補修に備えての基金に繰り入れています。教会員もだんだん高齢化して以前ほど盛大にはできなくなりました。それに以前は中古品でも需要があったのですが、現在のデフレ状況では、新品が安く買えるので中古品の需要も少なくなりました。

 今日は教会から帰ると、以前勤務していた大学の先生からの日本語教育についての質問や卒業生で今度日本の大学院を受験する学生さんからの研究計画の添削依頼などがありました。政府間では対立が続いていますが、民間レベルではそれと無関係に交流が続いています。

 さて今日は教会だったので、教会ネタで書きます。今日はジュニアーチャーチーチつまり教会学校の中高科の説教でした。以前は20人以上出席していた時代もあったのですが、今日は何と高校生の人が一人でした。一人でも20人でも同じように説教します。

 今日の説教で一番印象的だったのは、「私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい。」(マタイ福音書16章24節)と言う聖句です。

 現在はこれと逆のことが言われています。自分を捨てるのではなく自分を探すのです。人生は自分探しの旅だとよく言います。まだ見ぬ本当の自分を探すのが人生の目的だくらいの意味でしょうか。しかし、本当の自分などと言うものがあるのでしょうか。もしあるとすれば、今の自分は仮の自分なのでしょうか。

 聖書では、逆です。自分を捨ててイエスに従うことを求めています。また自己肯定が言われているのに、自己否定に近い「自分の十字架を背負う」と書いてあるのです。「十字架」とは罪の意味でしょうか。

 自分を捨て、自分の罪を自覚しながら生きていく人生、信仰のない人にとってはおよそ人間らしくない生き方に見えると思います。自己肯定感の強い日本人にはなかなか難しいと思います。

 しかし、自分の固執していてよいのでしょうか。もちろん自分でできることは自分で解決すればよいのですが、自分の力で解決できることの方が少ないと思います。昔野外活動指導者講習会に行ったことがあります。その時、講師の人から、崖と山との間の細い道を歩く時、人間は怖いので山側に体を傾けるがそちらの方が危ないと言われました。勇気を持って崖側に体と預ける方が安全なのだそうです。

 海でおぼれた人も助けに来た人に怖いのでしがみついて、かえって二人ともおぼれてしまうそうです。怖くてもまず自分を離してみて初めて安全になるのではないでしょうか。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」という言葉もあります。

 現代社会においてキリスト教の教えは受け入れがたいものです。しかし、受け入れがたいからこそ、ぜひ知ってもらいたいと思います。シンガポールではキリスト教の教会へ行く人が中国系の人を中心に増えているそうです。またロシアでもロシア正教への回帰が起こっているそうです。

 日本の場合難しい問題もありますが、素直な気持ちで取りあえず聖書を読んでみてはいかがでしょうか。明日は授業の準備のプリント作りです。