新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖書における「時」について

今日は午後から晴れるとの予報だったのですが、これを書いている今も強風が吹いています。それに小雨も交じっています。

 今日は日曜日なので教会です。日曜日は大体教会ネタです。今日は幼児祝福式と言って子供を祝福するはずなのですが、かんじんの子供が来なかったので、お祈りだけで終わりました。そう言えば、中国の教会でも子供たちがおそろいの服を来て歌ったり踊ったりしたことがありました。もしかしたらあれも幼児祝福式だったのかもしれません。

 礼拝後壮年会がありました。壮年とは40歳代からです。現実には50歳以上で最高は80歳くらいです。今日の出席者は7人でした。今旧約聖書の分かりやすい解説書を読んでいます。今日は出エジプト記でした。丁度モーゼがイスラエルの民をひきつれてエジプトを出発するところです。

 「十戒」などという映画などにもなったこともある個所です。ところで礼拝の説教では「イエスは世の光」というヨハネ福音書の部分です。(8章12節以下)一番印象に残った言葉は「「イエスの時がまだ来ていなかった」というものです。

 聖書では「時」というものを重視します。3時間1日1月といった単位として区切られた時間ではありません。ジャストタイムと言った感じなのでしょうか。

 旧約聖書の「コヘレトの手紙」(以前は「伝道の書」と言っていました。)が特に有名です。3章の冒頭から「何事にも時があり、天の下の出来事全て定められた時がある。」と言います。また、14節では「すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない」とも言います。

 そうなると運命論に陥る危険性があります。事実コヘレトの手紙の作者は9節で「人が苦労してみたところで何になろう」とも言います。そのため、コヘレトの手紙は虚無主義だとも言われました。

 しかし、人間には自分で時を選ぶことはできません。死ぬ時もそうです。自殺があるじゃないかと言いますが、自殺でさえ時が来ていなければ失敗に終わります。まして、いつ生まれるかも選べません。もちろん産婦人科学の進歩で、薬や帝王切開で生まれる時間を選べます。

 しかし、そもそも受精自身を人間がコントロールするのも困難です。子供がほしいと思っても授からない人も大勢います。おじさんも、自分の人生を振り返ってみると、やはり思いがけない時が備えられていたと思います。

 中国に行ったこともそうだし、中国から帰って今の勤務先を得られたのも、やはり思いがけない時が備えられていたのでしょう。中国に行くことも、招聘のメールが来た日の午後まで全く中国に行くなど思いもしませんでした。

 中国からの招聘のメールが来たのは3月1日つまり卒業式の日でした。夕方卒業式の記念会があって、帰ってサイトを開いて初めて招聘のメールを知ったのです。それから地図を見て大学のある街の位置を確認し、大学の概要をグーグルで調べました。

 今勤務している学校も、公募ではありません。向こうが偶然おじさんのことを知って依頼してきたのです。実はもう一年中国で働かないかという話もありました。相当熱心に依頼されました。(学部長自ら依頼してきました。)しかし、色々考えて帰国しました。

 帰国していなければ、今の勤務先は別の人が勤務していたでしょう。ここの学校の募集条件におじさんがふさわしかったことも採用された理由です。おじさんも喜びましたが、相手の学校も条件にかなっていたので喜んでくれました。

 仏教では縁というのでしょう。人間の力ではどうにもならない運命のようなものが神の与えられる時なのだと思います。今ちょっとした問題を抱えています。これも主の定められた時なのかもしれません。ハッピな時間だけでなく、試練の時も与えられるのです。

 明日も大学院の授業資料を作ります。