新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

真理はあなたたちを自由にする。

今日は久しぶりの晴天でとても温かかったです。教会のバザーを先月終わり、今日は教会の不用品の整理をしました。随分長い間本格的な教会備品の整理をしていなかったので、訳のわからないものが多くありました。それで、バザー展示品整理をきっかけに業者に依頼して、不用品を全て処分する予定です。

 それで、今日は午後そのお手伝いをしました。ブログは日曜日なので教会ネタです。興味のない方は読み飛ばしていただいて結構です。政治の方は第三極を中心に話題があるようですが、それはまた後日書きます。

 今日の説教は有名な聖句です。以前書いたように今はヨハネ福音書の講解説教です。これはヨハネ福音書の8章31~38節にあります。ここでの問題は「真理」とは何かと言う問題と「自由」についてです。

 まず「自由」についてです。聖書では「自由」の反対語として「不自由」ではなく「奴隷」なのです。つまり真理を知らない人は「奴隷」の状態にあると言うことです。聖書では「罪の奴隷」という表現がされています。日本の社会では、罪と言えば犯罪の意味になります。

 宗教的な意味での罪の概念は日本には希薄です。日本では神に対する罪より、他の人に対する気配りの方が重要です。罪は神と個人が対面する時に問題になります。日本では皆と一緒のことをしていれば罪の意識を感じなくてすみます。

 逆に皆と違うことをする場合、強い罪の意識を感じます。(KYなどと言う言葉が最も良くそれを象徴しています。)もう一つの問題は真理とは何かということです。真理はイエスキリストにあると言うことになります。ですから、真理というのは、イエスキリストを信じることであり、自由になると言うことは、今罪の奴隷とされている人間は罪から解き放たれ自由になると言う意味なのです。

 大学などの標語に「真理はあなたたちを自由にする」とありますが、キリスト教的な解釈とはずいぶん違っています。大学の言う真理とは学問的な真理です。

 ただおじさんも日本人として生まれ、日本の社会で生きてきたので、罪の意識と言うものが今一つ聖書の言うようにはなりません。そもそも日本の宗教は自覚的なものでなく、家の宗教と言った感じです。簡単に言えばお盆とかお正月にような時かお葬式の時に自覚するだけで、日々の生活の中で宗教や信仰を自覚することがありません。

 まして、神様との対話や神の審判など考えてこともないのです。そうは言っても一応40年近い信仰生活をしてきたので、他の日本人の人よりは日々の生活のことで神様のことを考えることがあります。信仰者として一つだけ毎日実行していることは、寝る前に神様にお祈りすることです。

 それだけはずっと続けています。それとできるだけ毎週教会に行くことです。熱心な方は毎日聖書を読んでいるそうですが、そこまではできません。

 明日は何とか試験問題と解答用紙、模範解答まで作る予定です。