新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

因果応報からの脱却

今日は比較的温かい一日でした。日曜日なので教会です。午後からは長老会(役員会)がありました。

さて、日曜日なので教会あるいはキリスト教ネタです。今日は生まれつき盲目の人がイエスによって目が見えるようになった奇跡の話です。いつも思うのですが、現代人は奇跡の事実のみに注目します。そんな奇跡がおこるはずはないと言うことです。これは当時の人達も同様です。

 しかし、聖書をよく読んでみるとこの記事のポイントは奇跡の話ではないということがわかります。今日の個所はヨハネ福音書9章1節からです。この記事は長くて、41節まであります。今日の説教では12節までです。

 まず、この奇跡の物語の面白い点は、盲目の人が自分から救いを求めたのではないと言うことです。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」で記事は始まります。奇跡の物語には様々なタイプがあります。

 ところで、イエスは当然気の毒だとは思ったでしょうが、それ以上ではなかったと思います。なぜなら、当時の栄養事情や環境から考えて盲目の人は大勢いたと思います。

 さて、それではなぜこの生まれつき盲目の人がイエスが関わるようになったのでしょうか。それは弟子たちの無知と偏見をイエスが憤られたからです。弟子たちは当時としては常識的な質問をしました。「ラビ、この人がうまれつき目が見えないのはだれが犯した罪ですか。」と。ラビというのは先生と言う意味で、ここではイエスに呼び掛けているのです。

 当時の常識では、障害や病気は罪の結果だと考えられたのです。これは現在でも同じではないでしょうか。先祖の祟りや、身内の罪が子供や孫に現れるという思想は決して消滅してはいないのです。ですから、よく何か悪いことがあると先祖を大切にしていないからだと言われます。

 この時の質問も同様で、弟子たちは「本人ですか、両親ですか。」と聞きます。きっと、本人も両親も周りの人や親せきから同じようなことを言われて続けてきたと思います。現代であっても同様のことがあるでしょう。

 イエスの答えは当時としては、あるいは現在でもはすごいと思います。まず「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」と当時の常識を否定します。問題はイエスの盲目になった理由です。当時の人はもちろん、現代人でも信じられないものです。

 イエスは「神の業がこの人に現れるためである。」というのです。まずイエスは因果応報の理論を断ち切ります。障害は結果であり原因は罪にあるという考えです。次に盲目と言うのは「神の業」(かみのわざ)というのです。もちろん、イエスはそれを立証するために、この盲目の人の目を治します。神の業とは神の栄光と言う意味です。

 これで終わるなら単なる治癒の奇跡の物語です。では残りの13節以下は何が書いてあるのでしょうか。当時の人には信じられないことでした。罪の結果が障害と信じていたのに、治癒した上に、障害は神の業(神の栄光)であるとまで言ったのですから。

 熱心なユダヤ教徒であるパリサイ派の人がすぐに調査に来ます。彼らこそ因果応報の権化だからです。良い行いをすれば良い結果が起きると信じ、また人々にもそう指導してきました。もし、この理論が崩れるなら彼らの権威は失われるでしょう。

 それで徹底的に調査するのです。次の記事の書き出しは「ファリサイ派の人々、事情を調べる」です。これが、13節以下の記事なのです。

 今日はここまでしか書きません。聖書の奇跡は単に奇跡という事実だけを書いているのではありません。その意味について書いているのです。これは事実の裏に潜む真理とは何かについて知るきっかけになります。おじさんもこの記事は知っていますが、このような読み方をしたことはありません。

 聖書は何度読んでも新しい発見があります。明日は後学期中間考査での点数の調整をします。