奇跡のその後
今日はとても寒かったです。とうとう雪も降りました。もちろん短時間ですが。初雪です。来週は選挙ですが、今日のように寒くて、おまけに勝負の決まった状況では、投票率が下がるでしょうね。
新聞報道のようなワンサイドゲームならおもしろくないので行かないという人も多いでしょうね。総選挙を世間がどう見ているかは後日書きます。株式相場の状況をみると投資家が来るべき総選挙後の経済運営がどうなると考えているのか良く分かります。一部の人にとっては許せない状況が来ると予想しているようです。
そこでいつも通り日曜日は聖書についてです。興味のない方はパスしてください。先週は因果応報からの脱出の話を書きました。今日は奇跡のその後についてです。皆さんも聖書で様々な奇跡が書かれていることは知っていると思います。足が悪い人が立てるようになったり、極端な場合死者が生き返ったりします。
先日は生まれつき目が見えない人が見えるようになった話です。今日はその後日談を書きました。そう言えばドラマや童話で幸せな結婚をして終わることがあります。(ハッピエンド 目出度しめでたし)20代で結婚した二人が何の困難もなく生涯をすごしたとは思えません。結婚されている方なら全員理解していただけるでしょう。でもその話を書くと夢が壊れるので、書かないだけです。
今日の奇跡の物語(ヨハネ福音書9章13節以下)では、奇跡の後日談が語られます。奇跡が起こったかどうかまず問題になります。奇跡を信じられない人々はまず眼が見えるようになった人の両親を呼び付けます。両親に本当に見えなかったのかと尋ねられても両親は生まれつき眼が見えなかったとしか証言しようがありません。(事実だから奇跡なのです。)
そうなるとイエスの奇跡を認めたくない人は、なぜ見えるようになったか両親に尋ねます。両親は下手なことを言ってトラブルになりたくない(イエスのことを認めると追放になったのです。)ので、現在でもある常套句、そんなことは私たちには分かりません。本人に聞いてくださいと言い逃れをします。
聖書は道徳や教訓の書ではありません。この辺りのやりとりは、現代人そのものです。議論は現代人には理解できない方向へと進みます。尋問をしているのはファリサイ派と言われる人達です。ユダヤ教原理主義と言ってもいいでしょう。(普通には律法主義者と言われます。)
彼らの言い分は安息日なのに眼が見えるような奇跡の行為を行ったのは律法に違反するというのです。今の法律家のような感じです。結果ではなく、その前提となる規則が問題なのです。急病人を車に乗せて病院に行く途中一旦停止を守らなかったのをとがめる警察官のようなものです。
どちらが大事なのかということなのです。ファリサイ派の人にしたら、大事な神から与えられた律法を簡単に破られたら律法の権威がなくなると考えたのでしょう。権威に対する挑戦はどの時代にも権威を持っている人への重大な挑戦と受け取られます。
もし、権威を否定する事実を突きつけられた時、権威を持っている人たちは、その事態を受け入れてこれまでの考え方を変えるか、権威を否定する人間を抹殺するしかありません。前者は極めて困難です。だれでも今迄の生き方を否定されるのは苦しいからです。
質問は今度は眼が見えるようになった人に向けられます。あなたは、眼を見えるようにした人についてどう思いますかというものです。自分の身に起こった奇跡を単なる偶然と考えるか、何か力を持った方の行いと考えるかです。
前者であればファリサイ派の人から睨まれることはありません。この人達から睨まれたら共同体から追放されます。そうなれば自身の身の安全も守られなくなります。中世のヨーロッパで教会破門されたら命さえも保障されなかったと言います。
このイエスから眼が見えるようになった人は最終的な決断を迫られるのです。もしイエスを神様から使わせたt方であると思いますと言えば、追放が待っています。でも普通の人間なら自分の眼が見えるようにはできないでしょう。
キリスト教の神髄はあなたは私(イエス)を何と言うかです。現代人のほとんどは、家が昔から○○宗だから多分自分もそうだろう、だから親の葬式は○○宗のお寺にお願いしようと考えます。お坊さんが一人ひとりにあなたは仏様を信じますか、そしてそのために何かしていますかと聞くことはありません。
あなたは家の宗教である○○宗の教義について知っていますかと聞かれても困る人がほとんどでしょう。キリスト教の場合は、基督教の教えをある程度理解しなければ洗礼を受けられません。洗礼を受ける時はその間に準備をします。
眼をイエスに見えるようにして貰った人は何と答えたのでしょうか。イエスの奇跡によって病気や障害を治してもらった人は大勢いたのでしょう。そして、その奇跡を目撃した人も大勢いたはずです。しかし、イエスを信じた人はそんなに多くはありません。
人は奇跡を見たから信じるようになるのではありません。では何によって信じるようになるのでしょう。答えは読者のみなさんで考えてみてください。来週はファリサイ派の人によって追放を迫られた眼が見えるようななった人はどうしたのでしょうか。その問題(信仰の決断)について書きます。
普段は生臭い政治や経済、軍事問題について書いていますが、日曜日だけはまじめに人生や信仰について考えています。明日は忙しいそうなのでブログはお休みするかもしれません。