新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ブドウ園の労働者ー絶対的価値と相対的価値

 今日は昨日までと打って変わって暖かい1日でした。今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。この話は以前も書いたことがありますが、おじさんの好きな聖書のたとえ話です。
 
 ところで聖書ではブドウ園の話しが良くでます。今でもこの辺りはブドウ栽培が盛んなのですが、当時も盛んだったようです。ブドウ酒の譬えも聖書に出てきます。新しいブドウ酒は新しい革袋に入れなさいというのは良く知られた言葉です。
 
 またカナの婚礼ではイエスキリストが水を良いブドウ酒に変えるという奇跡をおこないました。ところでこのブドウ園の労働者の話しはマタイ福音書20章1節~16節に出ています。他の福音書には出てこないようです。
 
 内容はこうです。あるブドウ園の主人が働く労働者を探していました。その日稼ぎの労働者を募集していたようです。日本だと山谷や釜﨑などでは、立ちん棒と言ってある場所に立って雇ってもらうのを待っているということを聞いたことがあります。
 
 普通の街では余り見かけませんが中国では良く見かけました。労働者が道端に座って特技を書いたフダをぶら下げて雇ってくれる人を待っていました。また荷物運びの労働者もよく街角などに固まっていました。そして、声がかかると大急ぎでかけつけていました。
 
 聖書に出てくるブドウ園の労働者もそんな感じです。主人が町に出て雇うのです。1日1デナリオンだと書いてあります。労働者1日分の賃金ですから今の日本で言えば8000円くらいというところでしょう。1時間1000円として8時間働いたらそのくらいになります。
 
 主人は夜明けから仕事を始めました。ですから一番最初の労働者は夜明けから夕方まで働きました。主人は途中で仕事が終わりそうにないので、9時頃、12時頃、午後3時頃にも労働者を雇いました。それでも間に合わないので午後5時頃にも雇いました。
 
 そして賃金を払う時になって皆同じ1デナリだったので夜明けから働いた労働者は文句を言いました。当然です。夜明けから長く働いたのにたった2時間くらいしか働かなかった労働者と同じ賃金だったからです。
 
 ここには長く働いた者は短く働いた者より多くの賃金を得ることができるという極めて当たり前の論理なのです。これは相対的価値とでもいうものでしょう。ところが主人は1日いくらの約束で雇っているのだというのです。そうなれば1日何時間働くかは問題ではないのです。つまり働いた時間と関係なく1日1デナリという絶対的価値なのです。
 
 主人は私は全ての労働者と1日1デナリで雇うと約束したのだから問題はないと言うのです。おもしろい議論ですね。ある人にとっては詭弁だと言う人もいるかもしれません。多分この世の論理としては納得できないところでしょう。対費用効果から全てを考える現代社会では考えられないことでしょう。現代社会だけでなく、聖書の時代でも同様だったと思います。
 
 ところが、この譬え話しの一番最初に何の譬えか書いてあるのです。それではこの譬え話しは何を教えるための譬え話しなのでしょう。実はこれが一番大切なのです。労働者にやさしい主人の譬えではないのです。答えは神の国とはどのようなところかの譬えなのです。
 
 神の国ではこの世の論理は通用しないのです。この比喩から言えば、長く信仰を持って神様のための働いた者も、短い時間信仰を持って死んだ者も同じように神の国に入るというのでしょう。基準は信仰を持つかどうかだけなのです。事実聖書ではキリストが十字架に付けられた時、一緒に十字架に付けられた囚人(政治犯)が、処刑される直前に「御国においでになる時には、私を思い出したください。」と言うとキリストは「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」と答えています。(ルカ福音書23章42節)
 
 キリストはこの死刑になる寸前の囚人の信仰告白に対して即座に神の国(楽園)に一緒にいることを保証しているのです。これらの記事はキリスト教の本質を述べているような気がします。もちろん納得できないと言う人も多いと思います。
 
 しかし、2000年間聖書はこの記事を載せ続けたのです。聖書には逆説的な表現が多いのですが、この箇所も逆説的な表現だとも言えます。しかし、午後5時に雇われた労働者は決して楽をしていたとも思えません。今日は何の収入もないのかと辛かったと思います。
 
 夜明けから働いた人は体はきついけれど安心でした。5時から働いた人は体は楽ですがそれまで心は暗かったと思います。では雇われた時主人に感謝の気持ちを持ち本当に喜んだのはどちらでしょう。収入ゼロと思われたのに仕事をもらえ、おまけに思いがけず多くの収入を得た人でしょう。
 
 自分を夜明けから雇われた労働者の立場に置くなら主人(神)に不満を持つし、5時に雇われた労働者の立場に置くなら主人(神)に感謝するでしょう。主人(神)はどちらの立場に立つ人間を喜ばれるのでしょう。この聖書箇所の最後は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」です。
 
 興味のある方は是非聖書を読んでほしいと思います。明日は授業の準備をします。