新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

教師の日又は武士は食わねど高楊枝

 昨日は授業でブログはお休みです。昨日は授業の他に小テストをしたり、中国の大学院生の人から頼まれた日中敬語意識に関するアンケートをしたりしました。おかげで大忙しです。
 
 昨日の授業は漢詩論語です。論語は何回教えても深みのあるものです。時間が余りないので、いくつか選んでやります。それから中国で買ってきた「古詩詞百首」を学生さんに見せました。題名から見ると難しそうですが、児童向けの古詩の本です。有名な李白陶淵明の詩もでています。
 
 値段はラーメン一杯分くらいですから、日本の感覚で言えば600円くらいです。少年が碁をやりながら詩を読んでいる挿絵があります。中国では小学2年生くらいから詩の勉強をします。日本では万葉集を小学生がやったり、古今集の朗読会などありませんが、中国では小学生の詩の朗読会などがあります。
 
 もちろん毛沢東の詩でなく、古詩です。ところで中国では教師の日というのがあります。おじさんがいた大学でも教師の日には花束や記念品を先生に贈呈するのです。私も花瓶をもらいました。街ではパーラーのようなところでも、教師の日は教師半額と書いてあります。
 
 もちろん中国語です。おじさんは古代中国語(漢文)を勉強しているので、中国語を少し読むことができます。そこで半分冗談で、お店の人に大学の身分証明書を見せて、自分は日本人だが半額になるか聞きました。ツマクマも一緒だったのですが、ツマクマは駄目だがおじさんはOKということで半額にしてもらいました。
 
 授業がない学生さんはメールで教師の日おめでとうと送ってきてくれました。韓国でも教師の日があるそうです。もう一つのタイトル「武士は食わねど高楊枝」ですが、これはやせ我慢の譬えですね。よく知られている通りです。ある本では、裕福な商人は娘を武士のお嫁さんにして「家は娘を武士に嫁にやり、娘は貧乏して困っています。」と言うのがステータスだっという話しも読んだことがあります。
 
 ところで、なぜ今頃こんなことを書いたのでしょう。実は最近各地で公務員が定年退職の前に離職する問題が取り上げられています。そのことについて書きたかったのです。しかし、最近公務員バッシング・教員バッシングがひどいので、炎上しては困るのでこんなタイトルにしたのです。
 
 このタイトルだと読む人が限定されるからです。この二つに共通するのは、職に対する社会の評価なのです。武士の場合、ご飯を食べなくても食べた振りをするのは、武士の意地や誇りがあるからでしょう。ではその意地や誇りはどこから出ているのでしょう。
 
 もちろん自らの意地や誇りもあるでしょうが、それ以上に社会がその職に敬意を払っているからだと思います。武士が貧乏でやせ我慢しても、そんな貧乏武士を金持ちの商人が尊敬していたのです。もし現代日本で教師の日を設けるといったら笑われてしまうでしょう。なぜ特定の職にだけそんな日を設ける必要があるのかと。
 
 どこの国でもそうでしょうが、教師でも良い教師もいれば悪い教師もいます。教え方の上手な教師も下手な教師もいます。中国や韓国の教師の日は教師個人でなく、教師という職自身に敬意を払っているのです。
 
 教師を評価して低いランクの教師を解雇するとか、生徒の評価が悪い先生は待遇を引き下げるとか言った話しが普通に飛び交う日本で教師に意地や誇りをもてというのは無理でしょう。人は敬意を払われてこそ頑張れるのです。
 
 個人主義でかつ拝金主義が横行しているという中国で教師は尊敬されています。教師をおだてることで何か自分に利益を得ようとするものではありません。もしそうなら町のパーラーで日本人教師の代金を半額にしたりしないでしょう。そもそもパーラーの従業員は若者なのですから愛国教育を受け反日感情が強いはずです。
 
 ところがそんな様子は全くありません。また学生さんと旅行していた時、学生さんが警察官からなぜおまえは日本人の通訳などしているのかと詰問されたことがあります。学生さんはこちらは自分の先生で各地を見てもらっているのだと言うと警察官はおとなしくなりそれ以上何も言いませんでした。
 
 中国人の横柄な警察官であっても、学生さんが自分の先生のために働いているのにそれ以上何も言えないのです。おじさんの街は戦争中日本軍から攻撃されたこともあって決して親日的ではありません。(街の博物館にはその時のパネルがあります。)
 
 ひるがってもし現代日本でも教師や警察官に対して敬意を払うならば、退職者は少しの退職金くらい我慢するでしょう。しかし、今は公務員全体に対してバッシングがすごいです。また教師についても評価によって給料まで差をつけられています。
 
 成果が求められて他の労働者と何の変わりもないのです。それなのにこんな時だけ聖職者意識を求めるのはどうかと思います。教師は聖職者だと言ったのは自民党ですが、その後の流れを見ると自民党も教師を聖職者などとは思っていません。(保守派の人が大嫌いな日教組が強かった時代に教師は聖職者だと言ったのです。)
 
 聖職者なら生徒が評価したりしないでしょう。牧師や僧侶を信徒が評価して説教がおもしろくないからとか、御経の声が悪からと言って謝儀やお布施を減らしたり増やしたりしないでしょう。聖職の聖はこの世の価値感から離れたものなのです。
 
 おじさんだったらどうしただろうと悩むところです。しかし、早期に退職したからと言って非難はできません。仕事をいつ辞めるかはその人個人の問題なのです。それに行政のサイクルが3月であることを知りながら、あえて退職金を減額し負担を軽減しようとした当局のやりかたが問題です。
 
 中国の言葉通りです。「上に政策あれば下に対策あり」です。今日は午後から大学院最後の授業があります。