新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「死に至る病」と「夜と霧」に共通するもの

 今日も暖かい1日でした。昨日の午後から暖かいです。今日は日曜日なので教会です。午後は役員会(長老会)がありました。これは教会の重要な事項について話し合う会です。
 
 さて今日は日曜日なので教会及び聖書ネタです。厳密には聖書ネタです。興味のない方はパスしても結構です。おじさんは政治や経済、軍事にも関心がありますが、信仰についても考えているのです。以前から書いているように、今礼拝ではヨハネ福音書の説教が連続して行われています。講解説教とも言われます。
 
 このところ扱われているのは「ラザロ」という人についての話しです。まだそれが継続しているので、ラザロの話しは後日書きます。今日はその中の一節からです。それは「この病気は死で終わるものではない。」(ヨハネ福音書11章4節)です。以前の聖書では「この病気は死に至るものではない。」と訳されていました。
 
 この聖句は有名なキルケゴールの「死に至る病」という本の題名の由来なのです。おじさんは大学生の時読みましたが感動しました。ヘーゲルの本は途中でギブアップしましたが、これは最後まで読みました。もちろんほとんどの内容は忘れましたが、この一節だけは覚えていました。
 
 さてそれでは死に至る病気は何でしょうか。普通死に至る病は、がんとか心臓病、糖尿病などでしょう。ところがキルケゴールは違います。その言葉はとても印象的で今でも覚えています。「死に至る病とは神の救いに対する絶望である」と言うのです。
 
 そもそも聖書では「この病気は死で終わるものではない。」という聖句の後には「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と続きます。
 
 もう一つのタイトル「夜と霧」は第二次大戦中強制収容所に入れられたフランクルと言う精神科医の著作です。かれは強制収容所の中にいても理性を失わず、収容者を精神科医の目で観察するのです。そしてある結論を出します。
 
 その前の部分から解説します。彼はある時突然大勢の収容者が死ぬ場面に出会います。それまで元気だったものまでばたばた死ぬのです。実はクリスマスの前に、クリスマスに特赦があって収容者が釈放されるといううわさが流れたのです。
 
 それを信じる者も信じない者もいました。ところが釈放はデマでした。それを信じて希望を持った者は失望から生きる気力を失います。それ以外にも生きることに希望を失った者は次々に死にました。フランクルは人間は希望なしには生きられないと書いています。
 
 ここまで読まれた方はもうおわかりですね。「死に至る病」と「夜と霧」に共通するのは、絶望と希望です。キルケゴールが言うように、死に至る病は絶望であり、フランクルの言うように、生きる支えは希望なのです。ある修道士はやはり強制収容所で収容者の身代わりになります。
 
 そして餓死室といわれる部屋で処刑されようとします。(死ぬまで食べ物も水も与えない処刑方法)他の囚人は皆死んだのに彼だけは死にませんでした。それで、ドイツ兵は注射で殺したと言われます。(ある本で読んだことがあります。)この修道士は別に努力して長生したわけではないでしょう。
 
 神の力を信じ、神の救いに絶望しなかったからドイツ兵があきれるほど長生きしたのでしょう。もちろん、病は気からと言うことばもありますが、それとはちょっと違います。
 
 ただ死ぬより辛い環境の中でも絶望しないと言うのは難しいかもしれませんね。明日は試験の模範解答と解答用紙作りです。