新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

能力主義と教育ー中国での体験を中心に

 今日は暖かい1日でしたが、午後から風が強くなりました。昨日で授業は終わりです。あっという間の1年間でした。と言っても実質8月と12月、3月は授業がほとんどないので、1年12ケ月でなく9ケ月です。それに2月のように授業が1回とかで、県立高校に比べると授業が本当に少ないです。
 
 来週は試験で、後は答案返しと成績処理だけです。昨日は株価が大幅上昇でした。外貨の方も円安に振れたようです。持ち株の方はそれほど値上がりしていないので、余り関係ありません。ただ外貨については、そろそろ売却を考えています。
 
 さて数日前ある方からお便りがあって、「能力主義と教育」について意見を聞きたいと書いてありました。その後「大学のあり方」についてもご質問があったのですが、今日は「能力主義と教育」について書きます。実はこのようなテーマで書く際には用語の定義が難しいのです。
 
 このブログは心に浮かぶままに書いたもので、専門的な論文でもレポートでもないので、論理の整合性や正確さは求めないようにしてください。まず能力主義ですが、おじさんの理解では能力のあるものを選抜して特別な教育を行うことだと理解しています。
 
 具体的にはエリート教育や飛び級、能力別編成などです。まず能力別編成について書くことにします。中国の大学で最初に教えたクラス(大学2年生)でとても教えにくいクラスがありました。他の先生も、あのクラスは教えにくいと話していました。
 
 そこで理由を聞いて驚きました。そのクラスは早い学生は中学1年から遅い学生でも高校1年生から日本語を勉強してきた学生だったのです。2年前外国語学院(カレッジ・・日本で言う外国語学部)の方針で英語学部も日本語学部もすでに外国語を学んだ学生(既習者)だけのクラスを作ることにしたのです。
 
 まさに能力別編成です。日本語学部の主任の先生は反対したそうですが、英語学部の先生からの強い要望があって、実施されました。その結果授業内容は変わらなかったので、すでに学んだいた学生(既習者。)は内容が簡単なので入学後まじめに勉強しなくなったのです。(「あいうえお」の字や読み方から始めます。)
 
 ところが、未習の学生の方がまじめに取り組んだのです。それで2年生の段階ですでに追いつき追いぬかれていました。おじさんが指導した学生さんで今日本の国立大学大学院で学んでいる人などは、四川省の谷間の農村出身でした。大学入学まで全く日本語を学んだことは。なかったのに(それどころか日本人に会ったこともありませんでした。)、今年修士を修了します。日本語学習がたった6年間で日本語の修士論文を完成させるほどまでになりました。(テーマは何と武士道についてです。)
 
 つまり早期に学習を始めても、意欲関心がなければすぐに追いつかれてしまうということです。意欲関心が高くて地頭(元々持っている能力)が高ければすぐに追いつくのです。そいえば高校野球でも中学時代クラブチームで硬球で練習していた子供はすぐに高校野球に慣れるそうです。
 
 公立中学の野球部出身者は軟式野球だったので、すぐには慣れないけれど夏休み明けには追い付くと監督が言っていました。これも中国での経験ですが、ある年、優秀な学生を6人選抜して特別授業をしてほしいと言われました。会話・作文・聞き取りなどの分野で放課後やるのです。
 
 ところがこれも失敗に終わりました。選抜された学生さんがいやいややっていたので効果が上がらなかったのです。おじさんの高校時代でもクラス編成を能力別にしました。確かに一番優秀なクラスからは大学教員が3人もでました。しかし、2年生から3年生に上がる時入れ替えをしたので、3年からクラスに加わった生徒さんはクラスになじまないまま卒業しました。
 
 3年生になって他のクラスから入ってきた同級生はなじめないのでクラス会にも来ませんし、会ってもあのクラスはおもしろくなかったと言います。おじさんが教師になってからも繰り返し能力別編成の話しが出ました。実際に実施したこともあります。
 
 結論から言えば、余り成功しなかったと言うことです。ご存じのように2・6・2の法則があるのです。どんな優秀なメンバーだけ集めても2割はさらに優秀になるが、必ず2割は駄目なものが出るという法則です。逆にどんな悪いメンバーを集めても、そこの上位2割は優秀なメンバーの下位2割より優秀だということです。
 
 どのような社会も優秀な者な者ばかりで構成されているわけではありません。優秀な者もそうでない者もそれぞれの個性と能力をうまく活かしていく社会が平和な社会ではないでしょうか。日本でも最も難しい試験の一つとされる国家公務員総合職試験(旧国家1種試験・・上級試験)合格者の中にも、なんでこんな人間が合格したのかと思う人もいるそうです。(県に出向していたキャリアの人から聞きました。)
 
 能力主義などと言わなくても、本当に能力のある人は自ら能力を磨いていくと思います。というわけでエリート教育や飛び級にはおじさんは反対なのです。飛び級について言えば18歳で博士号をとっても、同じ博士号を持つ仲間と飲みに行くこともできないし、ふさわさいデートの相手もいないでしょう。
 
 30歳近いメンバーが18歳の博士と共同して何かをするのは日本のような横並び社会では難しいし、18歳の博士も仲間に加われず不幸だと思います。エリート教育も教育の格差があった時代の話しです。旧制中学が県内に3校旧制中学の生徒が全県下で800人しかいなかった時代、旧制高校に行けるのは本当にエリート中のエリートだったでしょう。(県内に3校しか旧制中学がなかったというのはおじさんの県の明治時代初期の話しです。今は90校近く県立高校があります。)
 
 それに社会もエリートだと認めていました。さらには、そのようなエリートの集団もあったのです。ところが、大学大衆化の今の社会でエリートを選抜するのは無理だと思います。自分はエリートだと思っても、社会がそうは思ってくれないでしょう。たんなる思いあがった人間としてしか扱われないと思います。
 
 スポーツエリートが生みだした今回の柔道界の出来事を見ればよく分かります。相撲界のエリートたち(親方たち)を見ても同様です。エリート官僚もバッシングのど真ん中です。
 
 明日は中国の大学院生から依頼されたアンケートの集計をします。