新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ラザロの死をめぐって

 昨日に続いて今日も暖かいです。昨日は色々忙しくてブログが書けませんでした。土曜日書いた学生さんから依頼されたアンケートのデーター処理が終わりました。
 
 少しほっとしています。調べみるといろいろおもしろことが分かりました。大変でしたが、自分のためにもなりました。今日は昨日書こうと思った教会ネタについて書きます。
 
 今礼拝ではヨハネ福音書のラザロの死と復活について説教がなされています。イエスキリストの復活はイースターとして良く知られていますがそれに先行してラザロの死と復活の出来事があるのです。
 
 ラザロの死と復活の話しはキリスト者以外ほとんど知られていないと思います。それに同じ福音書でも、ヨハネ福音書以外記事がありません。
 
 こんな重大な事件なのに、なぜ他の福音書にないのかと思います。というおじさんもラザロの話しをくわしく読んだことはなかったのです。
 
 細かい話しは読者の皆さんにはおもしろくないと思いますので、おじさんが気になったところだけ書きます。まずなぜイエスキリストはラザロが病気になった時すぐに癒しに行かなかったのだろうかと思います。ただ聖書では、イエスキリストはラザロの病気は死ぬほどのものではないと言っています。
 
 皆がそう信じなかっただけなのかもしれません。ただラザロが死んだと言う話しを聞いてイエスキリストは心に憤りを感じ涙を流します。憤りを感じたとは怒りを感じたの意味なのだそうです。イエスキリストが怒りを表す有名な場面は宮で商人たちが商売をしているのを見た時がそうです。イエスキリストは机をひっくり返したりしました。イエスキリストが笑ったかどうかは不明ですが、感心したり、涙を流したり、怒りを感じたりします。
 
 お釈迦様が感情を表に現した話しは余り聞いたことがありません。禅などでは、感情が乱れないように修行するのですから、イエスキリストの場合とは全く違っています。
 
 ところで死者が大勢の前で生き返ったのですから大変な出来事だったと思います。それで多くの人がイエスキリストを信じたのですが、一方ではこの出来事を快く思わない人たちもいたようです。逆にこのままでは、ユダヤ人が皆イエスキリスト信じるかもしれないと心配してイエスキリストを殺そうとするのです。
 
 まもなく教会暦では受難節に入ります。受難節とはイエスキリストが捕えられ、裁判にかけられ、処刑されるまでの時を指します。大勢の人がイエスキリストを主と仰ぎながら、またたく間に死刑にしろと叫び出す、まさにドラマチックな場面が展開するのです。
 
 今年のイースターは3月31日です。礼拝説教もいよいよキリストの栄光と死、そして復活へと展開して行きます。明日は少しのんびり過ごします。水曜日は授業でその後土曜日まで忙しいです。ブログも明日でしばらくお休みです。