新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

大学のあり方

 今日は晴れた1日でした。しかし、肌寒いです。このところ、政治・経済・外交の話しが多いので、今日は教育についてです。
 
 以前ある方から大学のあり方について質問があったので、今日は大学について書きます。大学と関係が深いのが就職活動です。今大学が一番力を入れているのは、就職率アップです。おじさんが大学を卒業した頃は高度成長期で、経済や法学部の学生さんは、就職貴族でした。
 
 そもそも、おじさんが卒業した1970年代の大学進学率は20%くらいですから、大卒の求人に対して、卒業生の数も相当少なかったのです。今の大学のあり方の問題の一つは大学の数が多すぎることです。小泉改革の目玉として、規制緩和がありました。
 
 大学設立についても、事前審査が極めて緩やかになりました。駄目な大学は次第に淘汰されるので、事前に厳しく審査するより、審査はゆるやかにして、事後の成果で判断してもらおうというものでした。ところが、できた大学によっては相当ひどいところもあったようです。
 
 大学大衆化を認めるかどうかも大学のあり方を考える基準です。もし大学の授業内容をおじさんの時代並みにするとししたら、大学の数と各大学の定員を相当、多分半分以下にしなければならないでしょう。おじさんが、受けた大学院の授業でもおじさんの頃なら学部の3年生くらいのレベルでした。
 
 ただ今の流れは、狭く深くではなく広く浅くという傾向にあるのかもしれません。ある大学の先生に聞いたのですが、以前はどの学部でも外書購読といって、英語やドイツ語で原書を講読していたが、今の大学生の語学力ではとても無理だと言っていました。
 
 国文でも、影印本といって、崩し字で書かれた本を読まされていました。源氏物語などです。三条西本と言うもので、なれないうちは1日数行しか読めませんでしたが、慣れてくると結構読めるようになりました。
 
 それから、実学か教養かの問題もあります。以前はどの学部の学生であっても、人文科学、社会科学、自然科学からある程度の単位をとらねばなりませんでした。おかげで国文の学生のおじさんも、数学や統計学を勉強しました。(統計学は途中であきらめました。)
 
 今は役にたつ授業が求められています。また研究か教育かという面もあります。おじさんの時代の大学では研究が中心で、授業が古いノートを読み上げて、ただそれを写すような授業が結構ありました。今はそんなことをしたら、学生の評価が最低になってしまうでしょう。
 
 ただ、そのような授業でも試験前に読み直してみると結構勉強になったものです。また自分で聞きながら写したので、頭に残っていたりします。逆に現代のパワーポイントのように、分かりやすく整理され、考えたり自分で写したりする必要がないと、その場では覚えていても、細かいところを忘れたりします。
 
 江戸時代の学生は、辞書からテキストに至るまでひたすら書写したようです。自分で写すことによって内容を理解するのです。暗記教育などが罪悪視されますが、まず覚えることが最初なのです。
 
 パソコンがあると言っても、人の目の前で開くわけにもいきません。まして試験の時には役にたたないのです。ネットで調べると簡単に分かりますが、身につかないようです。どの時代でも人間は手と目を使い、時間をかけて学んだことしか身につかないようです。
 
 なんだか又取りとめのない話しになってしまいました。一つだけ最後に書きたいのは、企業が大学の成績を重視しないことについてです。中国の就職活動では、まず企業の側で必要な資格を書き出します。英語4級以上とかです。また、企業の方でも、総合職というよりある分野にしぼって求人します。
 
 たとえば、財務担当、人事教育担当、法務担当などです。そして、その職務についての資格(出身学部)などを要求します。また、日本語学部の学生さんだったら、英語と日本語の試験があります。面接が英語であったりするそうです。
 
 やはり日本の企業は理系は別として、文系では大学で勉強した知識より、コミュニュケーション能力ややる気を見るのだと思いました。大学生を勉強させたかったら、就職試験で専門知識を問うのが一番でしょう。
 
 明日は母親の十七回忌です。ですから教会はお休みです。