新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖書の逆説ー一粒の麦の話し

 今日も晴れです。風がとても強いです。今日は日曜日なので教会へ行きました。今日は礼拝の司式でした。以前書いた通り、簡単に言えば礼拝の司会と言うことです。
 
 何とか無事こなしました。ちょっと言い間違えたりはしました。結構緊張するものなのです。さて、今は受難節と言ってキリストが十字架に掛けられるまでの期間なのです。
 
 今日の説教は有名な一粒の麦のたとえ話しです。「一粒の麦もし死なずば」の言葉はとても有名ですが、それがどのような状況の中で語られたのかは余り知られていません。まずその発端から書いてみたいと思います。
 
 この話の発端は、イエスのところに何人かのギリシャ人が訪ねてくるところから始まります。おじさんもあの有名な言葉は知っていましたが、この話の発端がギリシャ人が訪ねてきたところからだとは知りませんでした。このギリシャ人たちは、有名なイエスに話しを聞きたいと思ったのでしょう。
 
 もちろんこのギリシャ人たちは信仰を持とうというわけはないでしょう。知的好奇心から来たのだと思います。弟子たちのひとりにイエスへの口利きを頼みます。その弟子も扱いに困ってさらに別の弟子に相談し、イエスにそのことを伝えます。
 
 その後に先程書いた一粒の麦の譬えがでるのです。この箇所の眼目は一粒の麦のたとえなのですが、おじさんには、それ以上にこのギリシャ人たちが印象的でした。このギリシャ人たちとはイエスは会わなかったようです。イエスにとってギリシャ人の知的好奇心を満足させるために話しをする気はなかったと思います。弟子たちがイエスのところに言ってギリシャ人の話しをしたところまでしか聖書には書かれていません。
 
 その後すぐにイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と述べます。大歓迎を受けた時ですから、弟子たちはこの言葉の意味を十分理解できなかったと思います。その後に逆説的な言葉を述べます。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」と言います。
 
 現代人からすれば生きることが何よりも優先されるのですが、「死ねば、多くの実を結ぶ」とと死の方を優先するのです。またさらに「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と述べます。
 
 諺で言えば「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」というところでしょうか。考えてみれば、水におぼれている人は助けに来た人に必死にしがみつきます。もちろん助かりたいと思うからです。逆にそのことで助けに来た人も一緒に沈んでしまうそうです。
 
 もし、怖くてもその人にしがみつくのでなく、全てを相手にゆだねたら逆に助かる可能性が増えます。ここでの言葉は、自らの生活や生き方(それを自分の命と言っているのでしょう。)に固執する人は救いに至らないと言う意味ではないでしょうか。
 
 命は一番大切なものの譬えだと思います。自らを捨てて神により頼むことこそが、聖書の教えの中心ではないでしょうか。自らを捨ててイエスに仕えるなら「父はその人を大切にしてくださる。」とその節の最後に書かれていました。
 
 浄土真宗キリスト教も自力救済でなく、他力本願だと言います。ちょっと乱暴な言い方ですが、まんざら的外れでもなさそうです。
 
 おじさんの聖書理解は独断と偏見に満ちていますので、これが正統なキリスト教の教義だとは思わないでください。おじさんなりの個人的な理解ですから。
 
 あすも大事な所用があって忙しいです。