新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

御彼岸です。-亡き父のこと

昨日の夜から雨でしたが、今日の午前中には曇りから晴れに変わりました。今日は御彼岸なので、長兄の家に御参りに行きました。

 母親は13年前に亡くなりましたが、それまでは長兄と一緒に住んでいました。それで仏壇が長兄の家にあるのです。長兄の家はおじさんの家から車で15分くらいのところにあります。

 おじさんはキリスト教ですが、家の宗教は仏教です。法事の時のことは書いたので、読者の方には御分かりだと思います。おじさんがキリスト者であっても、世の中の習慣に従って生きています。

 ところで、法事の記事では母親のことを書いたので、今日は父親のことを書きます。簡単に言えば今日は家族ネタなのです。父親はおじさんが小学校1年の時に死にました。昭和29年のことですから、今からほぼ60年近く前のことです。当時小学校1年生ですから思い出としてはわずかしかありません。

 父親は猛烈サラリーマンの走りです。死後の会社の友人だった人の話を聞いてもそうでした。そもそもおじさんの祖父もサラリーマンでした。大正時代の地方都市でサラリーマンと言うのは当時としては珍しい方だと思います。どのような経過で祖父がサラリーマンになったのかは不明です。

 祖父の会社は現在東証一部上場の建設会社ですから、当時としてもそれなりの会社だと思います。父親は商業学校を卒業後鉄鋼メーカーの社員になりました。長兄と次兄はそのメーカーの関連会社に後に勤務します。おじさんの街はその鉄鋼メーカーの社宅が沢山ありました。

 ある時、父親がその鉄鋼メーカーに勤務する友人の家に行ったことがあります。するとそこの御父さんが君の御父さんのことは聞いたことがあるよ。早くなくなって残念だったね。と言われました。中学時代のことですから、父が亡くなって6年以上たってのことです。

 別の関連会社に入った次兄も会社で、君の御父さんのことは知っているよ。仕事に厳しい人だったよと言う上司に会ったそうです。父親は亡くなった当時、一番の花形セクションである営業部門にいました。死んだ当時の上司である課長さんは、その会社の社長になりました。死の数年前に起こったのが、朝鮮戦争です。

 朝鮮戦争の思い出もも少しあります。おじさんの街には米軍が駐留していて、国鉄の駅に行くと列車に米軍の戦車が乗せられているのを見たことがあります。また空を米軍の輸送機が飛んでいるのを見たこともあります。国道にはジープが走りまわり、国道も別名ジープ道路とも呼ばれました。世の中は金へん景気と呼ばれ、クズ鉄などが高価で売れていました。

 おじさんも子供ながら、釘や鉄くずを拾って売っていました。そんな時代だから、鉄製品は引く手あまたで、出荷を担当する部署にいた父親は相当忙しかったようです。ダンデイーな父親で戦後間もない時期なのに、ゴルフをした写真があります。

 ニッカーボッカーをはいてクラブを持った写真です。当時再開したばかりの飛行機で東京に出張したりしていたそうです。そのまま長生きしていれば、それなりの地位に行けたと思います。当時掛長直前だったそうです。この会社は係長とかかず掛長と書くのが特徴なのです。

 掛長などと言うとたいした職種でないようですが、この会社の掛長社宅は入口に門があり、庭には池があって防空壕までありました。課長になると御迎えのハイヤーに乗り合わせて行き、部長になると家の中までハイヤーが迎えにくるのです。

 同級生の父親が部長でしたが、社宅に行くと門を入って玄関の前までハイヤーがつける広さがありました。今は全てなくなっています。父の死後長兄は私たち弟を大学にやるため高校を卒業して働きました。残りの兄弟はそのおかげで大学に行くことができました。

 もし父が生きていたら長兄も大学に間違いなく行けたと思います。ただ根っからのサラリーマンだった父がおじさんが教師になることを許してくれたかどうかちょっと不安です。ちなみに父の死因はリンパ癌でした。発見された時はすでに手おくれだったそうです。

 今なら抗がん剤などもあるのでもう少し長生きしたかもしれません。生きていればすでに100歳を超えていると思います。亨年42歳でした。おじさんたち兄弟もその配偶者も42歳を過ぎるまで心配したようです。今は父の死んだ年をはるか過ぎました。

 思い出は少ないですが、父のエピソードを聞く度に、父に負けないようにと思って必死に生きました。先日の法事でも兄弟でいくつかの父親に関するエピソードを話ました。皆同じエピソードを胸に刻みつけていたようです。どんなエピソードかはまた別の機会に書きます。

 明日はのんびり過ごします。