新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

中国の大学校内のお店及び施設

今日は朝方は寒かったのですが、午後になると一気に温かくなりました。株価はキプロス危機も収まったと見てまた高くなりました。アメリカの株式相場が上昇しているので当然でしょう。アメリカの株価が上がるのですから、当然ドル高円安になります。

 アベノミックスの効果もありますが、円安の原因はアメリカ経済の好調でしょう。(少なくとも株高が続いていますので)しかし、ヨーロッパには絶えず金融危機の可能性やユーロ離脱の可能性を秘めています。世界経済は時限爆弾を抱えているようなものです。

 今日は散髪に行きました。以前中国の散髪屋さんについて書いたことを思い出しました。散髪屋さんは大学校内にありました。日本の読者の方は中国の大学のイメージをつかみにくいと思うので、今日は日本ではありえない中国の校内のお店や施設について書いてみます。

 おじさんの大学は創立80年以上の伝統のある地方の国立総合大学でした。中国には国立大学(教育部の直轄大学)公立大学(省立)、私立大学などがあります。それに○○学院と呼ばれる単科大学もあります。総合大学も○○学院(外国語学院・法学院など)と呼ばれる単科大学(カレッジ)の集合体です。

 おじさんの大学はキャンパスが4つあります。その中で古いのが、大学本部など管理部門のあるA区と昔からあったB区にはおもしろい施設が沢山あります。ちなみにC区と言うのは、現職教育や継続教育をやる学校があり、ちょっと特殊です。D区は新しいキャンパスで地方政府の方針で市街地にあった大学をこちらに集めたのです。

 おじさんが住んでいたのはB区です。ここのは公的な機関としては、郵便局、警察の派出所がありました。軍の委託学生である国防生の住む国防生宿舎もありました。

 おもしろいのは洗濯屋さんがいくつもありました。大学の宿舎では充分洗濯できないからでしょう。それにプリント屋さんが沢山ありました。1枚1角(1.5円)です。制本屋さんもあります。大学の先生もプリント屋さんを使っていました。中国では日本のような印刷機はなくなんでもコピー機で印刷していました。

 試験問題も印刷室へ持って行ってコピー機で印刷します。食堂も各種ありました。ちょっと豪華なものから学食風のものまであります。校内で露店を開いていることもあります。大学のロータリーの近くで午後4時過ぎには粽を売るおじさんが来ていました。30分くらいでいなくなります。科学会館の前では遠くから果物を売りに来たり、ベッドの販売をやったりしていました。この会館は一時臨時の映画館(有料)にもなりました。

 警備員が回っているので、見つかるとうるさいのです。大学には付属の病院(診療室レベルでなく入院施設もある病院)、付属幼稚園、付属小学校、付属中学もあります。日本の教育学部付属小中学校とは違います。昔大学が何もかも面倒をみていた頃のなごりです。

 散髪屋さんもあります。おじさんが行っていたところは10元(150円)です。中国語が全く話せないのですが、最初に行くと、椅子に座れと言っているようなので座ると、さっさと髪を切り始め、洗髪して髪を整えてくれたので、ちょっと高額のお金を出すとおつりをくれました。

 それが10元だったのです。別に外国人だからと言ってぼっているようでもありませんでした。それ以来そこの散髪屋に行って散髪をしてもらって、10元払って終わりです。そう言えば電話局の出先機関もありました。そこでは電話代とコンピューターの利用料を払っていました。

 携帯と別に部屋には固定電話があるのです。毎月払いに行くので何となくそこの職員の方と顔見知りになりました。いつも地味な制服をきていたのですが、ある時町でその方と出会いました。御洒落な格好だったので、挨拶された時誰か分かりませんでした。

 後で、ああ電話局の人だったんだと思いました。スーパーもありました。そこには何とスーパードライが売っていました。驚きました。御寿司もありました。巻きずしなのですが、韓国寿司と書いてありました。絶対に日本の巻き寿司のパクリだと思います。

 年度末には卒業する学生さんが大学の広場に自分の持ち物を売りに出します。おじさんたちも日本に帰国する時持ち物を売りました。おじさんたちの持ち物はもちろん高価(中国としては)なものや日本製なのであっと言う間に人が群がってきて大変でした。

 売却額は日本円ではたいしたことはありませんが、中国として結構な値段になりました。そう言えば水屋さんもありました。ここでは大きなボトルで水を配達してくれました。学生さんも利用しているようでした。注文は少し中国語ができるツマクマがやりました。(○○元の水を持ってきて下さいと注文します。)

 中国の大学と町は昭和30年代後半の日本と平成25年の日本が併存する不思議な空間でした。帰国してもうすぐ2年目ですが、今思い出しても不思議な体験だったと思います。

 明日は大事な用事があるので、もしかしたらブログは書けないかもしれません。