新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「カインとアベル」-そこから何を学ぶのか

今日は朝方こそ曇っていたのですが、午後からはすっかり晴れてきました。日曜日なので教会です。朝は教会学校の御話(説教)その後礼拝の司式(司会)、礼拝後には教会学校の教師会がありました。

 一日山盛りの仕事です。さすがに疲れたので昼寝をして、懸案の庭の草抜きをしてやっと今ブログを書いています。今日は日曜日なので恒例の教会(聖書及びキリスト教も含む)ネタです。自分は仏教だからとか、自分は無神論だからという方はパスされて結構です。

 ここでもおじさんの独断と偏見に満ちた解釈がなされます。正統な聖書神学から言えば明らかな誤解かもしれませんが、そもそもこのブログは毎回誤解に満ちているので、無視して書くことにします。

 今日の教会学校での御話は「カインとアベル」についてでした。皆さんもこの話を御存じと思いますが、そうでない方もおられるので、簡単にストーリーを書きます。人類の始めは御存じのようにアダムで神様は次にエバ(以前はイブと言っていましたが、一番新しい聖書ー新共同訳聖書ーではエバになっています。)を作りました。

 ところがエバは蛇にそそのかされて、禁断の実を食べ二人は楽園を追放させられます。その後二人の間にカインとアベルという兄弟が生まれます。カインは農夫にアベルは牧童になります。そしてカインもアベルも収穫を神様に捧げるのですが、神様はカインの捧げものを喜ばず(聖書では「目を留められなかった」とあります。)アベルの収穫を喜びます。

 そのことを根にもったカインはとうとうアベルを荒野で殺してしまうのです。それを知った神によってエデンの東に住むことになります。以上が粗筋です。ところが信仰なしにこの話を読むと突っ込み所満載なのです。聖書は信仰を持って読まなければ理解不能あるいは許せないと思うことが多くあります。

 もちろん、そんな読み方はおかしいという人もいますが、それはそれで良いのです。まず最初の突っ込み所はなぜカインの収穫を神様は喜ばず、アベルの収穫を喜んだのか。神様はえこひいきではないかと言う点です。実は聖書をよく読むと二人の収穫に微妙な違いがあります。

 カインの場合は「地の実り」で、アベルのは「肥えた初子」とあります。微妙な表現の違いなのですが、やはりカインは通り一遍の捧げもの、アベルは最も良いものを捧げているようです。これは神様に対する感謝の気持ちの差なのかもしれません。

 次にカインは自分の捧げものに神様が目を留められなかったことに「激しく怒って顔を伏せた。」とあります。」
よく人の話を聞く時は顔を上げて聞きなさいと言います。顔が上げられない所にカインの気持ちが良くでています。先に書いた信仰の問題はここなのです。神様がえこひいきをしたと思って神様に激しい怒りを持つのか、神様がなぜそのようなことをしたのか考えるのかは信仰の問題なのです。

 なぜなら、この世は不条理不公平えこひいきに満ちているからです。たとえカインの捧げものが自分では充分良いのもであったとしても、神様が喜ばないこともあるはずです。その場合、もっと改善して良いもの、神様が喜ぶものを捧げることもできるはずです。

 神様はすぐにカインの気持ちを見抜きます。次の言葉がそれを表しています。「どうして怒るのか。もしお前が正しいのなら、顔をあげられるはずではないか。」と神様は言います。聖書は道徳の教科書ではありません。まさに人間ドラマであります。

 もし自分が神様でなくても親でも上司でも先生でも自分より上の人からこのような言葉を投げかけられたらどうするでしょう。おじさんなら恥じ入るところですが、カインは神様ではなくその怒りの矛先をえこひいきされたアベルに向けます。

 神様から指摘されたすぐその後に殺人が起こります。神様の言葉は6節~7節ですぐ8節で「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いた時、カインは弟アベルを襲って殺した。」とあります。読めばわかるように、殺人は偶発的な怒りによるものではありません。

 明らかに計画的なものです。現代日本でも兄弟の殺人があります。ほとんど一方が自分のアイデンテテイあるいは自尊心を回復させるために行うものです。あいつを殺さなければ自分は生きておられないというのです。相手を殺すことでしか、自己の存在を回復できないのです。

 カインは殺人を後悔していません。なぜなら次の節にこうあります。「主はカインに言われた。お前の弟アベルはどこにいるのか。カインは答えた。知りません。私は弟の番人でしょうか。」自分の弟を殺しておきながら、神様にしゃしゃととぼけるのです。

 全能の主は全てを知っていたのです。その次の言葉は極めて文学的です。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしの向かって叫んでいる。」

 カインはその時始めて自分の罪の重さを悟ります。「カインは主に言った。私の罪は重すぎて負いきれません。」長男として生まれ、跡継ぎとして大事にされ、農夫として成功していたと思われるカインは思いあがっていたのでしょう。神様などたいしたことはないと思っていたのでしょう。

 この物語は人間の心の闇を描いているような気がします。真理は細部に宿ると言います。興味のある方はぜひ原文に当たってみてください。創世記4章1節~16説です。創世記の中でも天地創造のような物語は信じがたいかもしれませんが、カインとアベルの物語は現代社会でも十分通ずる物語なのです。

 明日は所用で忙しいです。