新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

平和聖日でした。

今日は久しぶりに雨でした。午前中まで降ったのですが、午後からは次第に上がってきました。麻生さんの問題はあいかわらず尾を引いているようです。

 国内的には大したことはないと言う論調で、問題にしたマスコミを非難しているようです。しかし、おじさんも書いたように、海外特にヨーロッパやアメリカのユダヤ人にとって許せない内容になっているようです。国際的これがじわじわ効いているのは間違いないと思います。

 さて今日は日曜日なので教会ネタです。聖書ネタではなく今回は教会ネタです。今日は日本キリスト教団で定められている平和聖日と呼ばれる日です。ですから平和聖日礼拝ということになります。

 特別な礼拝で世界的に共通するのがクリスマスやイースターなどです。日本独自のものもあるのです。さて、今日は有名なイエスキリストの説教からです。

 山上の説教(山上の垂訓とも呼ばれます。)の一つです。「○○な人々は幸いである。」と続く説教なのです。その7番目にでています。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。

 「平和を愛する」ではなく「平和を実現する」つまり「平和を作りだす」という意味になります。聖書は受け身ではなく能動的に行動することを求めます。たとえば論語では「あなたがしてほしくないことを人にしてはいけない」(己の欲せざるところを人に施すことなかれ。)と言います。

 それに対して聖書は「あなたがしてほしいことを他人に施しなさい。」となります。アジアと中近東の文化の違いかもしれません。

 ところで「平和と実現する人々が」なぜ「神の子」と呼ばれるかです。この根底には平和は神との和解つまり罪の許しがあってこそ実現するという考えかたがあるのです。普通平和と言えば人間と人間が和解することなのです。

 しかし、イエスキリストはそのためにはまず前提として神と人間が和解し、平和が訪れてこそ次の人間と人間に和解へと進むと考えているのです。つまり神と人間の和解がなされた人々は「神の子」と呼ばれるのです。意味は「神に愛されている子」という意味なのでしょう。

 平和聖日と言えば、基地反対運動とか憲法改正運動への参加を呼び掛けるような気がします。事実社会派と呼ばれる教団のグループはそのように礼拝でも主張するようです。しかし、本来信仰は社会へと向かう基本的な考え方を明らかにするものなのです。

 神と和解し罪許された人間は他の人間との和解へ勇気を持って進めるとイエスキリストは考えたのだと思います。世界中で奉仕活動するキリスト者にはこのような精神があるのだと思います。

 日本の社会ではなかなか受け入れにくい考え方だと思います。だからこそおじさんのブログで主張することに意味があると思いました。もちろん反論もあると思います。反論を持つ方はその材料を提供されたのだと思ってください。

 おじさんのブログは議論の場ではないので(一方的に発信するだけ)もし反論があっても取り上げませんのであしからずご了承ください。

 明日は庭の手入れやその他の所用があり忙しいです。